1分間コトラー 西村克己

11月 17th, 2012 § 0 comments § permalink

 

企業が掲げる経営理念と、顧客が抱く社会、経済、環境に対する価値観や欲求が一致した時、サービスはブランドになる。

目指すべきは長期にわたる互恵的関係を築くことであって、単に製品を売ることではない。

マーケティングは販売に注力するのではなく、むしろ販売が不要なほど魅力的な商品の開発に注力すべきだ。

使用時の品質と使用後の品質。

価格を設定したからといって、価格を売り物にしてはならない。価値を売り物にすべきなのだから。

 「なぜおたくから買ったほうがいいのか」という質問に答えられなければならない。

顧客はハンターになった。消費者は特定の企業をひいきにするよりも、一回ごとに最も得になる企業と取引をするようになった。

「モノを売るのではなく、顧客の発展を支援する」をモットーに掲げるべきである。

 成熟しきった市場などというものは存在しないし、コモディティなるものも存在しない。

市場はすべてローカル市場である。

模倣者はすぐに現れる。あらゆる買い手を永遠に惹きつける競争優位など、存在しない。

生き残るためには、自分自身さえ餌食にしなければならない。変化するか、さもなければ死ぬだけだ。

明敏なマーケターは、何とかして明日のニーズを予見しようとするものであり、今日のお昼からニーズのみに神経を集中させるようなことはしない。

企業はしばしば、市場が2-3年ごとに変化することを見落としている。昨年の成功戦略が、今日の敗北戦略になっても 不思議ではない。

決意と目標を区別することだ。

イノベーションとは基本的に失敗の品質マネジメントであり、少数のすぐれたアイデアを得るためには、たくさんの劣ったアイデアを生み出す必要がある。

モデルチェンジは売れている時にやれ。

マーケティング計画も、実行に移さない限り1ドルたりとも利益を生まない。

バランスシートは真実を伝えていない。

ごく少数の製品が利益の大半を生み出しているというのが大企業の実態である。

ブランドを広告するのではなく、ブランドを体現せよ。

ブランドは金銭的目標を最大の関心にしてはいけない。

屍者の帝国 伊藤計劃×円城塔

9月 11th, 2012 § 0 comments § permalink

屍者の帝国:伊藤計劃さんの絶筆、円城塔さんが書き継ぐ 作風の差超え、意識の根源問う
http://mainichi.jp/feature/news/20120906dde018040082000c.html

円城塔インタビュー詳報:故・伊藤計劃との共著「屍者の帝国」を完成させて
http://mainichi.jp/feature/news/20120906mog00m040001000c.html

インタビューを読んで、買ってしまいました。以前から伊藤計劃さんの本が好きで、「ハーモニー」を最初に読んで大きな衝撃と影響を受けました。

ハーモニーは完全に病をコントロールできるという時代設定で、全国民の身体に監視ウィルスを打ち込み、何か異常があればすぐ薬剤が提供される、痛みのない社会で、人は何を感じ、求めていくのかという話でした。

伊藤計劃自身がハーモニーの執筆中も、病と闘い続けてながら病院でも執筆していたのですが、自身が書いた小説の中で、主人公たちが痛みのないユートピアに絶望するという、 なんだかとても重い、伊藤計劃にしか書けない世界観がそこにありました。

ハーモニーが遺作となった伊藤計劃ですが、書きかけの遺稿として「屍者の帝国」の設定が遺されていました。死後、その続きを依頼されたのが、氏の友人であった円城塔さんでした。最近芥川賞も受賞された注目の作家です。

読んでみてちょっと冒険譚っぽい感じみたいになってたのが、伊藤計劃の作品らしくなくて、気になりました。もう少し1人1人の主要人物が持つ精神の強さと危うさ、焦りや衝動、悲しみ、心の声を深く掘り下げてほしかったと思いました。 死者の復活というテーマ自体はとても面白いと思いましたし、大きなストーリーの破綻もなく、楽しんで読めました。

1890円という値段はちょっと高かったかなという気がしますが、満足です。 伊藤計劃がフランケンシュタインの技術で復活したと思えるファンならぜひ読んでみる価値ありだと思います。

進化しすぎた脳 池谷裕二

1月 24th, 2012 § 0 comments § permalink

実際の人間の目は、世の中に存在する電磁波の、ほんの限られた波長しか感知できない。
世界を脳が見ているというより、脳が(人間に固有な)世界をつくりあげている。

錯覚、盲点、時間の埋め込み、色づけ・・・。
「私」という存在は、その脳の解釈を単に受け取っているだけであって、脳が解釈したものから逃れることはできない。

「感情」は無意識。意識的に変えられない。

(表情は)呼吸と同じで、意識と無意識の中間。

言語として存在しないものは連想しにくい。
その人がどういう言語を使っているかによって固く縛られている。
思考が束縛を受けている。

扁桃体がなくなって「こわい」という恐怖の感情が消えると、本能がむき出しになる。
動物には「本能」の欲求がまずあって、それを「恐怖」によってがんじがらめにした状態が「理性」ということになる。

記憶というのは正確じゃダメで、あいまいであることが絶対必要。
100%完璧な記憶というのは意味がない。だって、同じ状況というのはもう二度とこないんだから。
だから、人間というのは見たものそのものを覚えるんじゃなくて、そこに共通している何かを無意識に選びだそうとする。

下等な動物ほど記憶が正確で、つまり融通が利かない。しかも一回覚えた記憶はなかなか消えない。
人間の脳では記憶はほかの動物に例を見ないほどあいまいでいい加減なんだけど、それこそが人間の臨機応変な適応力の源にもなっている。

そのあいまい性を確保するために、脳は何をしているかというと、ものごとをゆっくり学習するようにしている。特徴を抽出するために。
記憶を保留する。そうやってゆっくりゆっくり脳は判断していく。もちろん無意識に。

体の細胞は2~3ヶ月も経つとかなり入れ替わる。
脳はそれを排除している。自分がいつまでも自分であり続けるために神経細胞は増殖しない。

神経細胞にとってもっとも重要なイオンは「ナトリウム」。それと塩素イオン、カリウムイオン。その3つを神経細胞は大量に使って、それをうまく組み合わせて「電気」を起こしている。

いま人間のしていることは自然淘汰の原理に反している。現代の医療技術がなければ排除されてしまっていた遺伝子を人間は保存している。この意味で人間はもはや進化を止めたと言っていい。
その代わり、自分自身の「体」ではなくて「環境」を進化させている。

人間の欲望が進化の法則になろうとしている。

自然淘汰というのは進化のプロセス。でも現代では、進化のプロセス自体が進化しはじめた。新しい進化法が生まれようとしている。

いわゆる「心」を生み出すのは「言葉」である。極限すれば心は咽頭がつくったとも言える。

「見る」とはものを歪める行為 - 一種の偏見である。
二次元の網膜に映ったものを、脳は強引に三次元に再解釈しなきゃいけない。
「見る」という行為は、おそらく人間の意識ではコントロールできなくなってしまった。無意識の現象だ。僕たちは脳の解釈から逃げることができない。「見える」というクオリアは脳の不自由な活動の結果なんだ。

盲点は本当は見えないところなんだけれども、勝手な想像で見えちゃう。
思考についても、人間はたぶんわからないことを勝手に想像して埋め込む。何かわかんないと思ったら、きっとこうなってるだろうと勝手に思い込む。それで、「あっ、こうすれば、うまくつじつまが合うじゃん」というのをみんな無意識のうちに日常の生活でやってる。

「科学的なら信じる」という、その「信じる心」って一体なんですか、と。
「科学的」」というのは、自分が「科学的」だと信じて、よって立つ基盤の中での「科学的」。そう考えると、科学ってかなり相対的で、危うい基盤の上に成立している。

同じような赤に見えているつもりでも、実際、光の波長が全然違うということはよくある。
赤の知覚の恒常性がどのくらい現実に即しているかは、実際にはわからない。
「自己の恒常性」というか、僕たちを存続させている自己というのはどのくらい安定なものなんだろう。案外、危ういものじゃないだろうか。でも、自分ではそれに気付くことはできない。

スノーボール ウォーレン・バフェット伝

12月 11th, 2011 § 0 comments § permalink

市場は短期的には投票計です。長期的には重量計です。
最終的には重さが肝心なのですが、短期的には投票数が重視されます。

まずいアイデアよりもいいアイデアのほうが、厄介なことになりやすい。いいアイデアにも限界があることを忘れてしまうからです。

過去から類推して未来の成果を期待するのは危険である。

褒めるときは名指しし、批判するときは分野の不特定多数を批判する。

(バフェットとマンガーは)本や新聞ばかり読んでいる人間らしく体が硬い。考え方も似ていて、ビジネスは一生をかけて解決するパズルだと惚れ込んでいる。

ふたりとも合理性と正直が最大の美徳であり、興奮や自己欺瞞は過ちを犯す大きな原因だと見ている。

成功のルールを導き出すために、失敗の理由をじっくり考える。

子供を教育すると、両親が重んじる事柄を子供はいち早く吸収する。世界にどう思われるかだけを重んじる親なら、子供は本来のふるまい方を忘れてしまい、外のスコアカードに動かされるようになる。私の父は、内なるスコアカードが100%の人だった。
つまり徹底した一匹狼だったんだ。だが、一匹狼であることが目的の一匹狼ではなかった。人にどう思われるかを気にしなかっただけだ。人生をどう生きるべきかということは、父に教わった。父のような人にはその後、一度も会ったことがない。

グローバル資本主義の危機 G・ソロス

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

彼らは、究極の真理を知っていると称し、自らの見解を暴力を行使して世界に押し付けた。

ポパーは究極の真理には何人も近づくことはないことを認める社会機構を提案した。

われわれは次善のものでよしとせねばならない。それは不完全な社会であるが、それでも限りなく改善していくことはできる社会である。

彼はこれを開かれた社会と呼び、全体主義政権はその敵であった。最近の経験はこれが正反対の方向からも同様に脅威にさらされうることを教えてくれた。すなわち、社会的結束の欠如と政府の不在による脅威である。

グローバル資本主義システムは、金融市場はそれ自身の動きに任せていると自然に均衡に向かっていくという信念にもとづいたものである。ときとして外生的ショックによって混乱することもあろうが、やがて均衡点に復帰しようとする、というのだ。

この信念は間違っている。金融市場というものはよく度を過すものであり、暴騰・暴落の繰り返しがある一点を超えてしまえば、もとの起点に復帰することは決してないのである。

市場原理に任せるというのが不安定に任せるという意味だとすれば、社会はどの程度の不安定まで受け入れることができるだろうか。

金融資本は特権的な地位を謳歌している。資本は他の生産要素より移動しやすいものだが、金融資本は直接投資よりもさらに移動性が激しい。金融資本はどこであれ、最も儲かるところに移動していく。

政治への幻滅が市場原理主義を育み、市場原理主義の台頭が今度は政治の失敗を導くという過程をたどってきた。グローバル資本主義システムの大きな欠点のひとつは、それが市場メカニズムと利益追求願望を、本来はそれらとはまったく関係のない活動分野にまで侵食することを許してしまったことにある。

人々は自分たちの個人的利益に沿うような立法を目指してロビー活動する。今のように市場原理主義ないしなんの束縛もない個人主義がはびこる中では、それが自然で、合理的で、おそらくは政治家としては望ましい行動方式だとさえみなされている。

共産主義は市場メカニズムを廃止し、すべての経済活動に集団的な統制を課した。市場原理主義は集団的な意志決定を廃止し、すべての政治的、社会的価値に対し市場価値絶対優先主義を課した。いずれの極論も誤っている。われわれが必要とするのは政治と市場との間の、またルールづくりとルールに従うプレーとの間の、正しいバランスなのである。

国境を越えた集団的利益が存するかぎり、国家主権は国際法と国際機関に従属させねばならない。

究極の真理を所有するものはだれもいない。

相互作用性は思考を現実に結びつけるものであり、両方の領域に属する。

真理価値が不確定な論述は、真理価値がわかっている論述よりもずっと重要である。後者は知識である。それはあるがままの世界を理解するのに役立つ。しかし、前者はわれわれの理解が本来的に不完全であることの表明であり、われわれの住む世界の形成を助けるものである。

実際のところ、知的な流行は逆の極端に走っているのである。現実の主観的な見解への解体や参加者のバイアスが猛威を奮っている。異なった見解について判断を下すことのできる基準そのもの、すなわち真理が疑われているのである。私は反対側のこの別の極端も同じように見当違いだと思う。相互作用性はわれわれの真理概念の全面的拒否ではなく、その評価のやり直しにつながるべきものである。

「貧しき者は幸いである。天国は彼らのものだからである」という論述を信ずるとすれば、貧しい人々は本当に幸せかもしれないが、困窮から抜け出そうとする彼らの意欲はそれだけ弱まることになる。同じように、困窮は彼ら自身が悪いからだということになれば、彼らが幸せな生活を送る可能性はそれだけ小さくなる。歴史や社会についての一般的通則のほとんどは、同じように相互作用的性質をもっている。

われわれの住む世界はきわめて複雑である。決定の基礎となりうる世界像を形成するには、われわれは単純化しなければならない。しかし、すべての知的概念はそれが意味するものをある程度ゆがめ、このような歪曲はいずれもわれわれが理解する必要のある世界になにかをつけ加える。われわれが考えれば考えるほど、それだけわれわれが考えなければならないことが増えるのである。その理由は現実が所与のものではないということにある。それは参加者の思考と同じ過程で形成される。思考が複雑になればなるほど、現実もそれだけ複雑になるのである。思考は現実に完全に追い付くことはできない。現実はつねにわれわれの理解よりも豊富なのである。現実は思考を驚かす力を備えており、思考は現実を創造する力をもっているのである。

私は現実を分解しようとする人々にはほとんど共感をもたない。現実は特異であり、特異な重要性を備えている。それは参加者の見解や信仰に還元したり分解したりすることはできない。現実が本来的に不完全な人間の思考を包含するという事実は、説明と予測を論理的に不可能にする。

思考する参加者の前にある世界は、私がエレベーターの二枚の向かい合った鏡で見たものに大いに似ている。相互作用的過程は、こちらが故意に終わらせなければ、終わらないだろう。

それを終わりにする最も効果的な方法は、ひとつのパターンを決めて、実際の像が後方へ後退してしまうまで、それを強調することである。そこに現れるパターンは基調をなす感覚的知覚とは大きくかけ離れているかもしれないが、それは理解可能で明確であるという大きな魅力がある。宗教やドグマ的な政治的イデオロギーに多大な魅力があるのはこのためである。

私が複雑で混乱した現実をなんとか理解しようと試みた方法は、自分自身の誤謬性を認識することだった。

誤謬性という語にはマイナスの響きがあるが、大いに鼓舞されるようなプラスの側面もある。

われわれの理解が本来的に不完全だという事実は、われわれが学んで理解を改善することが可能だということを意味する。必要なのは、われわれが誤謬性を認めることだけである。それによって批判的な思考への道が開かれる。そしてわれわれの現実理解がどこまで到達できるかという点に関しては、限界はないのである。思考においてだけでなく、社会においても、改善の余地は無限なのである。

われわれは完璧を期することはできない。どのような計画を選択したとしても、それは不完全である。それゆえ、われわれは次善のもので満足しなければならない。完璧ではないが改善の道が開かれている社会組織形態がそれである。それが開かれた社会の概念である。すなわち改善に対して開放された社会である。この概念はわれわれの誤謬性の認識にもとづくものである。

誤謬性がマイナスの響きをもつのは、われわれが間違った期待を抱くからである。われわれは完璧さ、永遠性、究極の真理などを切望し、おまけに不滅までも求める。

人間と社会の構築物はすべて不完全だとする私の主張には、科学的な仮説たる資格はない。それを適切な形で検証できないからである。人間の構築物の欠陥、制度取り決めの短所は時間の経過によって明らかになる。そして相互作用性の概念は、人間の構築物はすべて「潜在的」な欠陥をもつという主張だけを正当化する。

ほとんどの人々は自分たちが間違っていることを認めたがらない。私の場合は、間違いの発見は前向きの喜びを与えてくれた。私はそれが金銭的な失敗から私を救ってくれることを知っていたからである。

客観的な水準では、私は自分の投資した会社や産業が欠点をもたざるをえないことを認識しており、その欠点がなにかを知るほうがよいと思っていた。このことは私の投資を妨げなかった。むしろ私は潜在的な危険地点を知ったほうがずっと安心していられた。

いかなる投資も有利な利益を永遠に約束することはない。

自分の思考や立場に誤りを発見するのは、残念どころか喜びの源泉になる。

幸いなことに、私は他の人ほど私自身を信じていない。

現実を理解したいのであれば、誤謬性解釈は役に立つと思う。しかし現実を操作することが目的だとすれば、あまりうまくいかないだろう。それにはカリスマのほうがよい。

必ずしもすべての参加者が批判的な態度を持つ必要はない。宗教団体や政治運動の中には、極端な排他主義を売り物にして信者の獲得をはかっているところもある。

ある目的が達成されると、それがまだ遠い目標に過ぎなかった時に比べて、少しも望ましいものには見えなくなってしまう。成功も最初の感激が薄れると、ほろ苦いものになってしまう。ある世代が物質的な富を築くことに成功しても、その富が子供たちに与えるものは、労働の倫理を拒否するわがままな自由なのである。

基本的な原理が功利主義の名の下に広範囲に無視され、なにもかもがまかり通る世の中になると、人々は方向性を失い、今度はかえってしっかりしたルールや厳しい規律を求める声が高まってくる。

もし成功が行動の当否を判断する唯一の基準となるならば、相互作用的な相関関係がどんどん押し流され、ついには均衡からほど遠い領域にまで入り込むことをなにものも阻むことはできなくなってしまう。

道徳観は後天的な感覚である。

どうしたら開かれた社会を守ることができるのか。答えはただひとつ、人々が、正しいことと功利主義的なことをはっきり区別するすべを学びとり、たとえ功利的ではなくても正しい行為をなすことである。これは厳しい要求である。

正しいことは効率的なことに従属させられてしまい、その結果、正しいことになにも気を使うことなく成功の道を歩むことがよりやさしくなってしまった。いうまでもなく私は、このような状態が、われわれの社会の安定に対して重大な脅威を与えていると考えるものである。

理性の時代→誤謬性の時代

現実はつねにわれわれの解釈するものより複雑である。

束縛された個人の必要とするものに敬意を払い、こうした必要性が満たされていないことを認めなくてはならないが、それを完全に満たしてやろうとしてはいけない。いかなる社会組織もそれを一挙にすべて満たすことは到底できないからである。

共通の利益は人々がそれぞれみずからの最善の利益に沿うよう行動すれば、その意図せざる副産物として得られるというなら、世の中はすこぶる単純なものになろう。

共通の利益は試行錯誤の過程を通じて慎重のうえにも慎重を期して追求すべきである。

共通の利益を知っていると主張するのはその存在を否定するのと同じくらい間違っている。

誤謬性とは、だれも真実を独占できないという意味である。誤謬性なら広範な文化の違いを許容できる。

啓蒙思想は永遠の真実があるものと考えたのに対し、開かれた社会は価値というものは相互作用性のあるもので、歴史の進行に伴う変化に支配されるものと認めている。

われわれはなにが善でなにが悪であるかに確信が持てないから、まさにそのゆえに法の支配を必要としている。われわれはみずからの誤謬性を認め、みずからの誤りを是正するためのメカニズムを提供する機関を必要としている。

グローバルな開かれた社会は人々がその基本的な原理を承諾しなくても形成できる。多くの人々はこうした問題にたいして注意を払わないし、注意を払う人たちがこの問題で普遍的な合意に達することができるようになれば、それは開かれた社会の原理に反することになる。だが、開かれた社会が世に広まるためにはそれに賛成する意見が多数を占めなくてはならない。

われわれはなぜ開かれた社会を理想として受け入れなければならないのか。われわれは孤立した個人として生きていけないのである。われわれは自分たちが住んでいる社会について関心をもたねばならず、ひとたび集団的決定を必要とするときがくれば、みずからの狭い自己利益よりも、むしろ社会全体の利益を優先する考えをとるべきである。市場メカニズムを通ずる狭い自己利益の追求が重なって行き着くところは意図せざる逆の結果となる。

グローバル資本主義システムはそこに属する人々を事実、統治しており、そこから離脱するのは容易なことではない。このシステムはいくつか帝国主義的性向を示している。勢力範囲に組み込まれていない市場や資源があるかぎり、安心できないのだ。その拡大好きの性向は、破滅をたどる運命の証なのかもしれない。

グローバル資本主義システムの中心を構成する国々は民主主義国だが、周縁に位置する資本主義国は必ずしもすべて民主主義国というわけではない。

実際、経済開発を進めるにはなんらかの独裁政治が必要だと、多くの人が主張している。経済開発には資本の蓄積が必要であり、資本の蓄積には低賃金と高い貯蓄率が必要だ。これは、選挙民の要望に応える民主政府より、政府の意志を国民に押しつけられる専制政府の方が達成しやすい。

グローバル資本主義システムにおける支配的な価値はマネーの追求であるということを事実としておく。これを事実とできるのは、金儲けを唯一の目的とする経済組織が存在し、今日、これらの組織がかつてないほど経済生活を支配しているからである。株式公開会社のことだ。

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