Home 日誌日常 生きる土台

生きる土台

by 豆野 仁昭
0 comment

新玉ねぎ、始まりました。今年は例年より収量は少なそうです。2歳の娘が色々しゃべるようになるも、聞き取りきれないこと多々あり、それも面白いこの頃です。季節はあっというまに進んでいきます。まだまだ冬だなぁなんて日和ってたらもう春本番の陽気が何度もやってきました。今日は雨の前に慌ててズッキーニを植えました。こんなことを何年も繰り返しています。何年もやってるとその価値なんてぼんやりしてくるというか、一体化してくるというのか、自分ごとや自分自身の健康のありがたみが分からないような感じです。まあでもこうしてフレッシュな野菜が食べられたり、食べるものに困らずに暮らせることは、本当にありがたいことだと思います。知足者富、強行者有志。

3/26㈬のこどものがっこうの様子。今回も子どもたちのリクエストに応えて、ピザを焼きました。生地もソースも手作り、薪も協力して集めました。サツマイモの素揚げはあっというまになくなるほどの大人気。合間に海に行ったり、ドッジボールやバスケ、マンガを読んでまったりする子も。おやつはレモンを搾って砂糖と混ぜて、炭酸水を作ってレモネードに。
今回はヨガ講師のみーさん @studiomitra._ にヘルプスタッフとして入ってもらいました。特殊な経験値やバックグラウンドを持つサポートスタッフと、同じ釜の飯を食べて1日を過ごすことは、子どもたちにとってよい刺激になると考えています。

こどものがっこうの特徴は、田畑があって、そこで採れたものを食べたり、薪火を使うなど、生きることの土台と直結していることだと思っています。我々人間がそれぞれの理想について自由に語ったり、自由に行動しているつもりでも、生きることの土台からは自由になれません。人間が自然環境(他者)に生かされていること(ひとつであるともいえる)、働くからご飯にありつけるということ、その上に自由や選択肢があるということが、参加してくれている子供たちには言葉にしなくても感じてもらえているだろうと思います。

やりたいことをやる、そんな主体性がこれからの理想の生き方や教育だと言われますが、まず自分の命の土台をしっかりと見つめることで、自分という器の輪郭や境界線というのが見えてくる、本当にやりたいことが見えてくるのではないかと思います。自分をじっと見つめるのでなく、自然を観察する、食と向き合う、そんな普段は忙しくて見過ごしがちなことの中に、自分の本質が見つかるかもしれないと思いました。

次回は4/5㈯ですが、定員一杯となっているので、その次の5/3㈯の参加者募集中です。4名様以上のお申し込みで随時開催も可能です。ラーケーションや休暇、企業研修(需要あるのか?)など、興味のある方はお気軽にお問い合わせくださいね。

小麦の青々とした緑のコントラストが美しい。収量と収入はほんとに割に合わない微々たるものだが、作りたいものは作りたいし、この日々の景色の変化だけでも元をとったのではないか、自然のアートに投資した、そんな気もする。
この作の後はまたまた割に合わない大豆を作ろうかと思っている。「おしょうゆクラブ」なんていう醤油を原料から作るクラブを作ったら面白いのかなと妄想しているが、さらに割の合わない仕事を増やして自分や家族のメンタルが持つのか不安で、まだ決意するには至っていない。
自分の知る限り、渥美半島には醤油蔵がないので、文化の継承ならぬ復興、創造ができたらいいなと思う。このところの温暖化で大豆も育てにくくなってきたので、そら豆やエンドウ豆、落花生の醤油も面白いのかもしれない。
分業化の現代、お金がなければ何もできないが、お金を稼ぐのも疲れるし、我々人同士の協力がお金が介在しないと成立しないとしたらそれはつまらないし、寂しいことだなと思う。お金が介在しなくてもボランティアでそれなりに機能している伝統的なお祭りなど、そういう無報酬で熱狂できる、参画できる、ボーダーがなくなる、そういうのが1年の中のハレの日として、私たち老若男女の中に共通して存在する、そんな余裕があるといいなと思う。そしてそんなお祭りの日はキリンやアサヒでなく、その町その村の酒で祝いたい。土台が失われつつある。土台を確かめたい、作りたい。余裕と土台があれば、我々は手を取り合える、そんな安心感が未来に繋がっていってほしいものだ。

0 comment
1

Leave a Comment

CAPTCHA


This site uses Akismet to reduce spam. Learn how your comment data is processed.