[amazonjs asin=”4822241564″ locale=”JP” title=”小倉昌男 経営学”]
たとえどれだけすぐれていようとも、経営者の過去の成功体験が、時代が変わって新しい仕事を始めるときに大きな妨げになることがある。それをこのときほど痛感したことはなかった。
過小資本、借金だらけの財務、古い能率の上がらない設備、作業効率の低さ、ぎすぎすした労使関係、収入の頭打ち、利益の低下。これらが相互に原因となり結果となって、身動きの取れない状態が続いていた。つくづく何とかしてこの悪い循環を脱却したいと、頭を悩ます毎日であった。とはいってもよい循環も悪い循環も、一朝一夕に起きるものではない。十年二十年と長い年月のうちに出来上がるものなのだ。では、良い循環を起こす出発点は何だろうか。基本的な条件は、「よく働くこと」である。商店でいえば、隣の店より朝は一時間早く店を開け、夜は一時間遅く店を閉めることから始まる。トラック会社もそうで、地方に本社のある他者の従業員は、ヤマト運輸より良く働いていることは間違いなかった。ヤマトは、本社が東京で労働組合もしっかりしていたから、長時間労働を強制することはできなかった。ヤマト運輸は、どこをよい循環の出発点にすべきであるか。考えた末、私はこう決断した。まず、労働生産性を高めよう。
一生懸命頑張ってネットワークを作り上げる。そのネットワークの上を毎日荷物が流れていく。それがある日、ある数を越した時、ジワリと利益が滲み出てくる。だんだん滲み出る日が多くなると、ネットワークのどこからか利益がぽたりぽたりと滴り落ちる。そしてやがてそれが集まって、ちょろちょろと溜まり始める。どこから出てくるのかはわからないが、全体として利益が出る。ネットワーク事業というものはそんなものではないだろうか。そんなイメージが頭の中に浮かび上がった私は、宅急便が成功するかどうかのカギは、「荷物の密度」ではないかと推測した。
サービスの差別化をキーワードとして宅急便を展開していて問題になったのは、サービスレベルを数値として把握できないか、ということであった。具体的にサービスレベルをあらわせなければ、いくら他より優れたサービスだといっても、独りよがりにすぎない。
サービスを提供する供給側の論理と、サービスを受ける利用者の論理は、正反対の場合が多い。供給者はとかく自分の立場に立って考える。つまり、自分の都合を中心に考えるのである。でも、それは間違っていないか。よく、レストランで食事をしている客が従業員の態度が良くないと言って怒ることがある。経営者は「従業員には接客態度について厳しく教育しています」と言うだろうが、実際の現場では、従業員同士がおしゃべりに夢中で客が呼んでも気がつかないケースなどが日常茶飯事だったりする。
サービスとコストは常にトレードオフの関係にある。サービス水準を上げればコストは上がり、コストを抑えればサービス水準も下がる。経営者の仕事とは、この問題を頭に入れ、そのときそのときでどちらを優先するかを決断することに他ならない。宅急便事業を始めるにあたって私が決断したのは、「サービスが先、利益は後」ということだった。サービスを向上してまず郵便小包などと差別化を図らなければ、結局、利益の上がる事業にはならないと考えたのである。設備投資や社員採用を決断する時も、この発想が必要である。大和が「社員が先、荷物は後」「車が先、荷物が後」というモットーを掲げ、社員数や集配車両の台数を積極的に増やしてきたのも、その時点の荷物の量に合わせて社員や車の台数をそろえたのでは市場は広がらない、社員や台数を増やし、サービス水準を上げることで潜在需要を開拓しようと判断したからであった。
「サービスが先、利益は後」これからはこのモットーを金科玉条として守ってほしい、と私は宣言したのである。営業所を新設したラプラスかマイナスか。そんなことは議論の余地のない問題である。宅急便を始めた以上、荷物の密度がある線以上になれば黒字になり、ある線以下ならば赤字になる。従って荷物の密度をできるだけ早く、濃くするのは至上命令である。そのためには、サービスを向上して差別化を図らなければならない。コストが上がるからやめる、というのはこの場合、考え方としておかしい。サービスとコストはトレードオフだが、両方の条件を比較検討して選択するという問題ではない。どちらを優先するかの判断の問題なのである。だから、手間暇かけてメリットやコストの計算をするのはやめてほしい。それよりも、サービスを向上するにはどうしたらよいか、それだけを考え、実行してほしい。私は皆にそう訴えた。そこで「サービスが先、利益が後」のモットーを作ったわけである。「サービスが先、利益が後」というのは、社長だから言える言葉である。だからこそ、逆に社長が言わなければならない言葉である。
前は、本当に労災事故が多かった。でも、人命の尊さを考えたとき、何としても事故を減らさなければならない。それで考えたのは、能率を上げることだけを言っているうちは事故はなくならないということだった。その気持ちを表すために、「安全第一、能率第二」という標語を工場内に掲げた。時間が経つにつれて安全の実績は徐々に上がったが、能率は決して落ちなかったという。安全も能率も、どちらもしっかりやれと言っていた自分は、結局どちらも中途半端だった。なんでも第一の社長は「戦術レベル」の社長である。うちの会社の現状では何が第一で、何が第二、とはっきり指示できる社長は「戦略レベル」の社長である。
私の結論は、上司の目は頼りにならないということであった。ただ、社員にとってみれば、仕事をやってもやらなくても評価が同じでは納得しない。一生懸命やった人とやらなかった人に差をつけなければ、公正さが疑われ、社内秩序が維持できなくなる恐れもあるわけである。そこで考えたのは、「下からの評価」と「横からの評価」。下からの評価は部下による評価、横からの評価とは同僚による評価である。そして評価項目は実績ではない、人柄だ。誠実であるか、裏表がないか、利己主義ではなく助け合いの気持ちがあるか、思いやりの気持ちがあるかなど、人柄に関する項目に点をつける。体操の祭典のように、複数の社員の祭典を集め、最高点と最低の点を外し、残りを足して平均点を出す。つまり多くの目で評価する。もちろん単独ではなく、他の制度と併用するのであるが、私は、人柄の良い社員はお客様に喜ばれる良い社員になると信じている。
私は、経営者には「論理的思考」と「高い倫理観」が不可欠だと考えている。経営は論理の積み重ねである。したがって論理的思考ができない人に、経営者となる資格はない。また、経営者は自立の精神を持たねばならない。しかし今、社会はボーダーレス化が進んでおり、どこに競争相手がいるかわからない。常に論理的に考えて、攻める姿勢が必要なのだ。併せて経営者には高い倫理観を持ってほしい。社員は経営者を常に見ている。トップが自らの態度で示してこそ企業全体の倫理感も高まると、私は信じている。
経営にメリハリをつけるのも、戦略的な考え方である。第一を強調するためには、第二を設定すればよい。
攻めの経営の神髄は、需要をつくり出すところにある。需要はあるものではなく、つくるものである。
マスコミを宣伝に利用しようと考える経営者も多いと思う。だが新聞記者は自分の仕事にプライドを持っているから、安易に利用しようと思っても拒否されるのがおちである。マスコミの使命は、新しい情報を一刻も早く伝達する子tだから、消費者に関係のあるニュースは必ず取り上げてもらえる。記事の中で取り上げてもらういわゆるパブリシティは、非常に効果があるもので、高い広告費を使った宣伝より、はるかに有効である。宣伝と広報は違う。経営者は、すぐれた広報マインドを持つことが必要とされていることを知らなければならない。
経営者は、常にプラスの施行をする必要があると思う。「ねあか」の経営者が成功しているのは、決して偶然ではない。新日鉄の稲山氏に感心したのは、常磐津を愛好する仲間が料亭に集まる会で、私などは酒の席なので、他人の唄はあまり身を入れて聞いていなかったが、稲山氏だけは違っていた。感心したのは、真剣に聞いておられただけでなく、どんな下手な唄でも決して悪く言われないことであった。初心者には、声が大きくてよろしい、うまくなるから頑張りなさい、と言われる。必ず何か褒められるのである。しみじみ器量の大きい人は違う、と思ったものである。他人の人格を尊重し、長所を見つけて認めるという点で、経営者として大事な資質について教えられたのである。
企業の目的は、永続することだと思うのである。永続するためには、利益が出ていなければならない。つまり利益は、手段であり、また企業活動の結果である。企業は社会的な存在である。土地や機械といった資本を有効に稼働させ、財やサービスを地域社会に提供して、国民の生活を保持する役目を担っている。さらに雇用の機会を地域に与えることによって、住民の生活を支えている。企業は永続的に活動を続けることが必要であり、そのために利益を必要としているのである。もし海外から資本だけが来て利益を上げ、その利益を国外に引き上げたら、地域にとって企業の存在価値は認められないと思う。
私は個人的に、人間として大事なことは「真ごころ」と「思いやり」だと思っている。顧客に対しても、社員に対しても、「真ごころ」と「思いやり」で接することを信条としてやってきた。経営トップがひとり高い倫理を誇っても、社徳の高い会社にはならない。社員全員の倫理性が高くてこそ、社徳の高い会社といえるのである。それにはまず、トップが先頭に立ち、高い目標を目指して歩まなければならないのである。
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