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美の呪力 岡本太郎

by 豆野 仁昭
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消失したもののイメージは限りない。

人間の生活はいつも全体であり、幅いっぱいにあふれ、ふくらんでいる。

惜しみなく消えて行った文化が、どのくらい巨大で高貴であったか。ものを作ってそれが失われたのではなく、ものが無い「空」に生き方を賭けている精神風土、そのひろがりがあるということ。

なんにもなさ、無いということのキヨラカさ。

沖縄の文化のレベルは高い。今に残るこの島の踊りや音楽、口誦文芸などは十分それを語っている。

最も神聖な場所には何もないということは、明らかに積極的な選択があったとみるべきだろう。

人間のいのちの切実さ。それを最も窮極的にあらわすのは、無名でささやかな、まったくただの婆さんであり爺さんであり、子供たちなのだ。今日、近代人は人生には目的があり、それに向かって生きていると信じている。社会全体がそういうモラルだ。しかしそれでいて、みな目的、生きがいを見失って徹底的に空虚になっている。不幸な精神状況だ。

進歩を疑わず、また時代にとり残されまいと努力する。掛声は勇ましく、経済的成長を誇る。だが知らない間に重みが肩に食い込んでいるのだ。自他ともに見せかけている。辛い惰性。しかし、ふと空しさを感じる。いま押しあげているこの岩が、たとえ「輝かしい未来社会」にしても、頂点に達した瞬間にまた麓に転がり落ちてゆく。その予感は全身を空しい風のように吹き抜ける。

顔を刻み、神格にしたのち、それをことごとく地面に埋めてしまう。ただ無存在である、なる、ということよりもさらに激しい、積極的な還元である。なんたる謎。

人間存在の絶望的な醜さ、不潔、それへの不信と憤り。血も出ない窒息の方がより残虐である。誠実であればあるほど、透明な眼をもてばもつほど、血の匂いを身近に感じとらずにはいられないのである。

ああオレは怒ってるな、と腹の奥底でにっこり笑いながら、真剣に憤っている。

人間はいつでも戦いながら生きてきた。自然に対し、そしてまた人間同士の間で。たとえどんなに温厚で満ち足りた者でも、人生を闘いつづけている。とりわけ、積極的な人間の身を投げかける姿勢は挑戦なのだ。

自分が勝つために、敗れた者がいるなんて、私には不潔な気がする。戦いは人間の運命の透明な流れでなければならないのだ。

ひるは世界であり、夜は宇宙だ。

白日のもとであたりを眺め、己れ自身の姿にふれ、人はほとんど絶望する。状況の壁。すべてが光にさらされている。明らかだからこそ、心はとざされる。

自己の限界と、世界内にあっての疎外感。だからこそまた一面、権力意志も生れてくるのだ。それが逆に、惨めに己れにかえってくる。ふと「昼のコンプレックス」という不思議な言葉をこしらえてみたくなる。

夜-孤独を噛みしめながら、とき放たれ、自分を超えたイマジネーションが八方に走るのだ。

この無限に透明な世界は、それ故に混沌なのだ。

人間の運命は永遠の輪廻だ。その実感は誰でものいのちにひそんでいる。輪廻を実感するのは、出発点においてではなく終着点からである。

一日の終りから、生命が燃えあがるのだ。太陽が西の地平に、真赤に血をほとばしらせ、強烈な叫びをあげながら落ち込んで行く。そのとき人間の誇りと生きる意味が、突然大声とともにわきおこるのだ。全存在をもって生きたアカシと、新たな決意。

帰りの道、夜は、死を意味する。しかしこの宵闇に死ぬからこそ生きるのだ。

もし自分が絶望しているなら、それをのり超えるか、捨て去るか、あんな風に出すべきではない。共感しながら、一種の憤りを覚えるのは、あくまでも人間として不自然な、なにか欠けているものを感じるのだ。

一般はとかく才能と技巧を混同しがちだが、二つは異質なのである。

彼の作業は、許されず、認められなかった。許されなくても、彼の身のうちの夜は、暗さを塗りつける。原色をほとばしらせ、自然にいどめばいどむほど、裂かれた傷口はあらわになる。

彼は絵描きではなかった。ひたすら人間であった。つまり、本当の意味で芸術家だったのだ。だから瞬間瞬間に絶望にぶち当たる。いわゆる絵描きたちはそういう人間的な悲劇、その矛盾の情感をもっていない。ただ描きつづける。それを使命だと思っている。だが本当の芸術家はそれだけでは自分自身を許さないはずだ。

芸術なんて何でもないのだ。それを見極め、捨てたところから、はじめて本当に意味がひらける。芸術に憧れ、しがみつき、恐れ、叫び、追いかける。そのような芸術主義では、ついに「芸術」に達することは出来ない。これこそ、二十世紀芸術家が承けつぎ、推し進めた極意だった。

絵画なんて、ただの表現であり、遊びであり、当然虚構である。しかもそれが理解される、されない、世に受け入れられる、拒否されるというドラマはかりそめのことだ。そのかりそめに彼がこだわりすぎた、こだわらざるを得なかったというのは、今言った通り時代の限界である。そして、弾丸を自分の身体にうち込んで、「死」を、決定的な運命を目の前に見すえて、はじめて彼の魂は存在自体を悟った。このもうこだわりようのない、すべて終った時点で、彼は生涯ではじめて平気で外を見かえしたし、自分の運命を見すえたといえるだろう。

夕闇は激しく襲ってくる。われわれの耳には新たな「通りゃんせ」が響いてくる。まさしくわれわれの運命の前途は濃い闇だ。ゴッホが落ち込んで行った最後の夜よりも、はるかに巨大な闇。

昼はひたむきに輝き、夜は透明で、しかも混沌のまま広がる。今日の夜と昼はぐちゃぐちゃにまじりあって、明るさ、透明さを失っている。そこに絶望する。この空しい運命を、どううちひらくか。

中世には、昼に夜があり、夜に昼があったに違いない。絶対者への憧れ-生活はまことに平たく地についていた。土とともに、糧とともに汗みどろに生きた。天ははるかに遠い。遠いからこそ無限に向かって精神はひらいて行く。割り切れたものではない、もっと絶対的な時間と空間のなかにうち込んで行く。そういう純潔な精神を私は中世に見る。

矛盾に対してまったく平気である。そこに「絶対」が出現する中世において、人は矛盾に対面しながら透明でありえた。近代人はそのとき己れが破れるほかないのだが。

夜こそ宇宙である。無限に暗黒な空間は渾沌として透明であり、そこに人は忽然と、己れの姿の絶対者を見とる。

自分が仮面である。

火が人間生命の最も深い奥底にふれる呪力を秘めているからだ。火はよろこびと不安感のバランスの上にある。危険であり、破滅を意味する。と同時に、生命のもとであり、また清めである。

人間だけが火に対する神聖なよろこびを知っているのだ。

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