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畑というキャンバス

by 豆野 仁昭
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土地というのは本来誰の所有物でもありません。
ただ土地があるだけです。
人間が勝手に、法律をつくり、則って、所有権を主張しているに過ぎません。
借りていても、買っても、本質的には誰のものでもない。
しかし人間社会的には、誰かに所有権が設定され、畑でいえば耕作権がある。

数多の生命が共存する地球上で、(勝手な人間都合の)土地を使用する権利を行使するものとして、自分はどうしたいのだろうか?

2週間に1回は殺虫剤を噴射して虫を殺し、使い残った大量の農薬をドボドボと側溝に捨て流し、海を汚したいのか?
除草剤をまいて草を絶やし、消毒とのたまって土中の菌類や微生物を殺し、化学肥料をまいて、作物の生育をよくしたいのか?
それでできた農産物が高く売れて、自慢げに、得意げに、立派な家に住み、自分の正義を信じ、権勢を振りかざしたいのか?

自分はそういう農業はやりたくない。
画家がキャンバスの前で、純粋に筆を下ろすような、美を追求したい。
畑が農業者にとってのキャンバスである。
キャンバスからはみ出るほどに毒をまきちらし、環境を汚していいのだろうか?
土地の所有権などかりそめでしかない。
本質的には自分のものではありえない。

自分は畑というキャンバスに、純粋な心で向き合えるように自分を律し、絵を描きたいと思います。
単なる自己満足かもしれませんが、その絵が、多くの人に見てもらって、褒めてもらえたら、それは嬉しいことです。 
地球上の全ての畑が、様々な生命が輝いては朽ちていく美しい絵になったら、それはとても素晴らしい世界じゃないかなと思います。

追記 
美しい花を作るために、その他の環境を汚す、その花は本当に美しいのだろうか。野山に自然と咲く、個々さまざまな形の旬の花々の美しさとは、全然違う。
物質的にはモノや食べ物が大量で過剰に供給され進歩はしました。しかし、もっと想像力を働かせて、花を見たり、感じたり、しなければ、文化的な進歩というのはありえないと思います。
流通規格やしきたりにとらわれ、旬をなくした、理不尽で強欲な人間都合で生態環境を破壊しながら作られた、そんな花々や農産物を、あなたは本当に美しいと思っていますか?
そうではない、季節にあった、無理のない花作り、野菜作り、小さなのや大きなもの、規格も柔軟な、真の意味で旬を愛でる、そういう市場が日本で発展したら、文化が開いたら、重厚で洗練された長い歴史遺産が多く残るヨーロッパの文化にも、負けない国になれると思います。

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