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「運」という要素

by 豆野 仁昭
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東北大地震から1年がすぎました。
いまだ復興は遠く、その爪跡と人々の傷跡の大きさを様々に報道されています。

いずれ起るといわれ続けている東海大地震よりも、先に東北での自然災害が発生しました。
ちょうど一年、昨日の自分は、ふつうにご飯を食べ、お酒を飲みました。
大きな爪跡に立ち向かう被災者の気持ちと同じのはずがなく、自分が木をくべ、火をたき、自然とともに暮らしていいのだろうかと考えました。

地震というのは日本では定期的に発生する自然災害で、回避不能です。
人の生死や物質的幸福を何が左右するかと言えば、適切に避難するための知識や能力もそうですが、結局は「運」ではないでしょうか。

「運」 運ばれてくるもの。そして運ぶことができるもの。

われわれはさほど変らない社会や日常に慣れてしまうと、自分が自分の知識と能力で選択し、立脚し、責任を負っているように錯覚してしまいますが、ほとんどの要素は選択できていません。

われわれの一つ一つの生命そのものが、ビッグバンという宇宙創生から運ばれて流されて、流れの中の現在に生きています。親も祖先も、その運の流れの中で誕生し、みんなあらゆるものが流されて続けてきたし、今も流され続けている。

自分が流されている力は、もとは無数の微小な力が重なった大きな力ですが、自分の微小な力も自分の運命(運ばれていく命)や他者の運命、世界の大きな流れにも、関与することができる。
わたしたちは祖先によって運ばれ継がれた命を生きていますが、その運命を運びつづけることができるかは、自分の知識と能力にかかっています。

祖先も大地震や津波などの自然災害を乗り越え、克服してきたからこそ、今の我々の運命(運ばれてきた命)が存在できている。
いつまでも悲運を呪ったり、祈ったってどうなるわけでもない。
つらさに流されても、生きていればいつか知らぬ間に災難苦難を乗り越えてしまう。
大いなる自然の恩恵がある。
祖先が運び継いできた命の流れがある。
大きな流れに命を運ばれながら、一人一人もまた、微小に運んでいけばいいのではないでしょうか。

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