町でいちばんの美女 C・ブコウスキー

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

いい政府などというものはない。あるのは悪い政府と、もっと悪い政府だけだ。

なにをやったって時間の浪費ではある。よほど素晴らしいセックスに出会うとか、いいものが書けたとか、夢幻のような愛に包まれたとかいうのでないかぎりは。

無感覚になったり恐怖におびえたりしながら、失敗をくりかえす人生というのがあったっていいではないか。問題はどこを見るかで、私はうわっつらはどうでもいい。私は自分を見つめる。

工業的な成功をおさめることを農民は理想としている。

犬の糞を除いたら私の糞がいちばん臭い。

人生の意味を知ってるのは、貧しい者だけだ。金持ちや生活に心配のない人々は、ただ推し量るだけである。

いまでは一瞬の死は珍しくない。にもかかわらず、われわれはなおも進歩を信じて改良を重ねていく。図書館は書物でぶくぶく太り、着膨れ、蚤がたかっている。優れた絵画には何十万ドルもの値がつき、医学は人間の心臓を移植している。道を歩けば狂人とまともな人間の区別はつかない。そのような状況にあって、われわれは突然、自分たちの命が愚かな連中の手中にあることに気づくのである。

私はこれからも娼婦や競走馬や酒とともに時を過ごしたい。そうやって迎える死は、自由だ民主主義だ人道主義だ、といった言葉で飾られたどんな死よりも、自分の死に責任を持てるという点で、私にはずっと誠実なのである。

人の食べ物に寄せる思いの深さは知っている。私には退屈だ。液状であればいいんだ。

女は、男が無関心でいるときに近づいてきて真価を発揮する。つまり男からしぼりとる。男の強さなんて意味をなさないのだ。

精神病院にいくよりは二日酔いになるほうが、ずっとましだよな。

貧しい男たちになにができるというんだ?女どもはふつうの労働者には目もくれない。女たちの関心の的は医者や科学者や、弁護士やビジネスマン、そういった手合いだった。われわれがどうにかできるのは、そういった連中に捨てられた女たちで、もはや女とはいえなかった。使い古されて、醜くなって、病気持ちで、そして頭がおかしくなっていた。

みんな覇気がなく、あたりまえで行儀がいい。

かつてどれだけの男が、自由に生きただろう。半生とはいわず、もっと短い期間でも……。

人はきれいな嘘を好む。

マイペース酪農 三友盛行

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

多すぎる牛は赤字を生み出す一因で、「必要か必要でないか」で判断すべきです。

働く主体は風土なのであり、主人公である風土が自然力をフルに生かせるように「促す」ような農業をめざしたい。

近年、それとは逆にお金をかけ、働きさえすれば乳はできるという思いあがりが蔓延しています。この思いあがりを前向きな積極性だと錯覚している農民は、農業を企業と考え、企業家をめざして舞い上がっています。

心を亡くした人は、単なる物体にすぎません。動く物とは動物です。人に心があるから人間なのです。単に動くだけでは動物で、人が動くことを「働き」と書きます。人が心を回復して、風土に生かされていることを実感し、即を越えず、節度をもって働けば、酪農は楽農に変わり、ゆとりと豊かさが実現できるのです。

極端にいえば、農業にとって一般にいわれる経営や技術は基本的に必要ありません。つまり、農場外で生産された生産資材、外国産の穀物、エネルギーを多量に投入するのに伴って、経済収支を合わせるために必要以上に経営と技術が入り込んでくるのです。
一方、酪農の土台をなしているのは土・草・牛で、本来は人間などいなくても自然に生きるシステムを備えていたのです。酪農にあってはそれが主人公であって、われわれ農民は、そのシステムが十分に機能するように、環境を整備し、段どりをつけるなどの手伝いをする。それが営農すること、働くことの本来の姿です。

むしろ大切にしたいのは、牛と人との関係です。一つは物理的な相互の位置関係、一つは心と心の関係です。牛と人の距離は近からず遠からずで、牛が安心でき、人もスムーズに作業ができる適切な距離が自ずとあります。これ以上でも、これ以下でも牛は不信感を抱き、驚きで時には足を上げます。

入植直後は牛との会話も未熟で、何頭もの牛を死なせました。牛は本当に見てる間に死んでしまいました。牛が増えたときは忙しくて、牛の語りかけに気がつかずに、わかっていても無視したりしてしまいました。適正規模に落ちついてからは、牛を死なせたことはありません。牛舎が一つなので、ひと回りですべての牛に目が届きます。牛飼いにとって、牛の健康ほどありがたいことはありません。

私には、篤農家になる能力も気力もありません。しかし、真の農家・農民にはなりたいと願ってやみません。自分が主体となって酪農をするなどという大層なことはできません。そこで働く主体、主人公には風土にお願いしました。風土が主体ですから、その風土が働きやすいように促す、そんな農家になろうということです。段取りをしっかりとして、あとは生きものたちの働きにまかせています。草は自然に大きくなり、牛は放してあげればのびのびと草を食べ、土は休むことなく励んでくれます。
風土の領域に過剰に立ち入って、風土に迷惑をかけ邪魔をする、そのはてに農家は疲れきっています。どうころんでも、われわれ人間は完全ではないのですから、風土に生かされる「促農家」になりませんか。風土に恵まれているのですから、もう少し甘えて怠慢になりませんか。農民は少々怠慢なくらいがちょうどよいのです。

農業には家畜がいるのが本来の姿なのです。

堆肥には、ただちに肥料効果を求めるのではなく、土になじみ、地力的な効果つまり富の蓄積を期待すべきです。

適量とは、健全な生産環境を維持し、再生産できる循環の仕組みの結果に生産された量です。適量を超えた農産物は、われわれの子や孫がニ十一世紀に食べるべき食糧を先食いしている分だと認識すべきです。

配合を食べたくてもなければ、乾草や青草を食べざるを得ません。

唾液の分泌、内臓の働き、生産量などが、牛のおだやかさに影響すると思います。

ヘルパーにまかせられないとすれば、その牧場の作業のやり方にむしろ問題があるのです。俺でなければ、私がいなければできない作業や搾乳があることは、誇るべきことでもなんでもありません。

ヘルパーが苦労することは、実は自分たちが一番苦労していたところなのです。

男のロマンは、女のフマン。
男性のアクセルと、女性のブレーキが一つになって、安心・安全な営農・暮らしが実現します。

適切規模を超えた拡大は、決して積極性によるものではなく、消極性によるものです。逆に立ち止まり、縮小、現状維持をすることは、実は積極的な人生観がなければできません。自分自身の、あるいは家族に対する確固たる生き方、方針がいつまでたっても確立できないために、ずるずると流れに乗って拡大してしまいます。

男性は本当に弱虫で、主体性のないものなのです。そしていつも、他にその原因を見出すことに長けています。ただ単に、男性に生きる自信がないだけなのです。

男性の思考法は垂直方向で、女性は水平方向です。上へ上へ大きくなることで、また時として背のびをして、まわりと高さを比べたり、一喜一憂しています。女性は地に広く、強く根を張り、あらゆる方向に興味と関心をもち実行してゆきます。男女の特性を組み合わせて、はじめて社会として認められる存在になるのです。

女性が男性と同じ立場に立ち、男性が女性を評価し受け入れてゆけば、営農・暮らしは確実に変わります。

酪農は自分のための利益を生産するだけの場ではなく、公の社会資産でもあるのです。

私の農場はチーズの製造、販売をしているため、多くのみなさんが訪問してくださいます。ただ単に、チーズを購入するということだけではなく、牧場のなかをゆっくり散策したり、牛馬、ネコ、ニワトリなどと遊び、林のなかでブランコ、イスで憩っていきます。夏は無農薬の野菜、秋には落葉、木の実を採ってクリスマスリースをつくる人もいます。
牧場は信頼と安心をつくり出す場でもあるのです。

二十世紀の酪農の主人公は人間でした。人間が生きるために酪農を経営しました。二十一世紀は人間が生かされるために、乳牛を主人公にします。その道しかありません。
それは決して難しいものではなく、人間が微力であることを認識し、風土の力を最大限に利用して生産する原形を生かしつつ、経験の積み重ねと科学の力を利用して、営農すればよいのです。人間の科学・技術・過剰な欲が、農業としての酪農より前面に出ないことが大事です。

主人公は乳牛という認識のもてる農民。
乳牛を支えるのは、自然という大きな働きから、ミミズ、昆虫、微生物という小さな働きまであることを知り、それらをすべて育む風土に生かされる農民。
農民は、酪農の助け手という立場をとれる人。
女性をよきパートナーと受け入れる人。
男のロマンは女のロマンと同等になれる人。
適正規模の営農と暮らしをつくりあげられる人。
男性も女性も、過去から現在そして未来へのたいまつの伝達となれる人。オタオタしないでオロオロできる人。
成長から成熟へ、大人になれる人。

日本で一番遅い春と早い秋で暮らしが成り立つ根釧の風土は、日本で一番の農業適地かも知れません。ただし、風土にふさわしい草地酪農に限定されます。農業は本来風土に規定されるものです。現代技術は、なるほど風土の制約を超えたかのようにみえますが、それは単に経済収支が合うという範囲にすぎません。

風土を越えた一戸より、五戸の酪農家が生かされる農業のほうがはるかに効率がよく、豊かなのです。

農業の生産物は無限ではありません。生産拡大を実現したのは、有限な資源とエネルギーです。農業は風土の範疇を越えることはできません。農業の基本は適地、適産、適量です。とくに適量が大事です。
適量であることがおいしくて安全であり、かつそれにふさわしい対価が必要なことを消費者に理解されることが必要です。この対価が国民が理解し支払うとき、農業は人類の存続とともに永続し、環境を守り人びとの生命を守るのです。
そして、生命を支える農業は人類共通の財産として、この財産を守るために人びとはそれぞれの立場でつくすことができるのです。二十一世紀の農業は単なる農民のための営農ではなく、地球人の共通の社会資産です。
農民は社会に貢献し、社会の評価に耐えうる農業を行わなければなりません。このことが農業が社会に支えられ、この作業に参加する農民の人生をも豊かなものにしてくれるのです。

年をとったら縮小し、若者は一から築けばよい。
私も入植以来三十年を超しました。五十五歳を前にして体力がなくなりつつあります。しかし、体力の衰えが私をして長年の夢であった農民にしてくれそうです。体力がないゆえに風土に従順に、風土に頼る農業が展開できます。

農業の節度という範囲ははっきりと明示されていないのが問題なのです。この節度は一人一人の農民が体験的に知ることしか方法がないのかもしれません。
農業のよさの一つは自主的であることです。この自主的であることは決してわがままではなく、節度と一体であるべきです。この節度を守ることは、時として経済的繁栄と距離をおくことになります。しかし、長い視点でみれば、農業が持続して、農民を末永く豊かにしてくれると確信しています。

私の農民人生のもっともよかった点は、初代の開拓であったことです。文字通り裸一貫のスタートでした。妻と二人。あるのは若さと夢だけでした。肉体的な苦労も、借金の山も幸せを育てる糧でさえありました。
すべての農民が初代になることは不可能ですが、せめて一世代一農業を実行できればすばらしいと思います。右あがりの成長だけの農業ではなく、一世代ごとに完結する農業が実現すれば世代の循環がスムーズに行われ、生産量の拡大だけにとらわれず、借金の累積もなくなり、後継世代の意欲もわき、過疎もなくなります。

現在行われている大方の農業は、ほかから誘導されている「あなたの農業」なのです。風土に生かされ、家族を支え、地域を盛んにするために、一人一人がそれぞれにふさわしい「私の農業」を確立し実践してください。

「恵まれた自然を与えてくれた存在の意志を識ったとき、人間は節度を覚え、自然の開発と保全をはかるときができます。
その一助として農民の存在があり、農業の意義があります。
われわれ農民は過去から現在へ、そして未来へと絶えることのない誇るべき世代の伝達者なのです」

奇跡の経営 リカルド・セムラー

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

一週間毎日が週末発想とは、仕事の時間とプライベートの時間をうまく融合させた、新しいやり方。仕事を楽しみ、仕事への情熱と個人生活の情熱のどちらも満足させる真のあり方を提示したい。仕事に対して抱いている従来のイメージ「単純な繰り返し作業、退屈、激務」を、「仕事=心から楽しく、幸せと自由なもの」に代えるだけのこと。

これからは、旧態然としたビジネスのやり方は、確実に廃れる。そして、その時期が早ければ早いほど、企業にとっても、企業で働く人、社会にとっても好ましいものだと確信している。わたし達の生活や仕事のあり方を変えてしまう「状況の変化」に対処するには、コントロールをやめることが絶対的に重要だ。

コントロールに執着することは、妄想だ。コントロールのメカニズムが厳しさを増すにつれ、ビジネスの本来の目的「関係するすべての人の満足感、価値ある人生、そして、投資と労働に見合う報酬の提供」から遠ざかってしまう。

組織階層がなく、公式の組織図が存在しない。ビジネスプランもなければ、企業戦略も、短期計画、長期計画もない。会社のゴールや企業理念、長期予算もない。決まったCEOが不在ということも、よくある。副社長やCIO、COOがいない。標準作業も定めていなければ、業務フローもない。人事部がない。キャリアプラン、職務記述書、雇用契約書がない。誰もレポートや経費の承認をする人はいない。作業員を監視・監督していない。

社員は、自分の興味と直感に基づいて、仕事やプロジェクトを選択する。我々は、社員に会社の目標を達成することを試みる前に、自分のやりがいと満足感を求めるよう言ってある。

人は一人前の大人とみなされているのに、それが職場になると突然、半人前の若者のように扱われてしまう。なぜ自分たちのリーダーを選ぶ場に、社員は参加できないのか。なぜ、社員が自らを管理してはいけないのか。もっと主張したり、挑戦したり、質問をぶつけ、オープンに情報を共有することがどうしてできないのか。

自分の直感を大切にして、チャンスを生かし、工夫して、プロジェクトや事業を決めてほしい。社員に、自分の真の才能は何なのか、そして自分がやりたいことは何かを見つけることが出来るように、そのための余裕と機会を与えてあげる。そうすれば、社員の個人的な抱負を会社の目標と合致させることができ、それによって、自然にバランスはとれてくる。社員がひとたびやりがいを感じ、活気づいて、生産的になると、彼らが自ずと会社に利益をもたらす。

最小限の価値観を共有している、ビジネスの同盟グループ。

高度な技術を要するもの、参入市場において質の高い企業になること、その市場において我々がユニークな存在価値を持つこと。これらの3つの基本的な条件を満たし、どの分野でもオンリーワンの存在になることを目指す。我々がいなくなることで、クライアントががっかりし、声を大にして不満を訴えるような会社にしたい。

我々の活動の根底に戦略があるとすれば、それは、どうしてなのか、その理由を問うこと。常に質問する。いつでも、毎日、特定のことについて、連続して3回は質問するようにしている。質問することは、アイデアの硬直や、丸暗記の回答をすべて捨てさせることにつながる。こうした習慣こそが、会社が長期に存続し、成長を遂げ、利益を生む秘訣。

わたし達は、口を開ければ、家族と過ごす貴重な質の高い時間こそが、最優先事項だと言っている。

人は、より生産的に、目標に向かって働き、家族を養い、未来を築くようにできている。

工場の組み立て工程でも、フレックスタイムの導入は可能。なぜなら、働いているのは立派な大人だ。その大人である作業員が、どうして業務に支障をきたし、自分たちの仕事を危うくするような行為をするというのか。私は、アセンブリーラインで働く作業員自身が、スムーズに作業できる形で、フレックスタイム制を導入していくと確信していた。結果は、プログラムを導入する前日、作業員は、関係者に、翌朝何時に来るのかと自主的に聞いて確認していた。

責任感のある大人が、会う約束をした後で、理由もなく、それをすっぽかすことなんてない。

マネージャーは、社員が会社のために行っている本質的な部分にだけ関与している。最も困難なことだが、我々が改革の過程で行ったことは、コントロールをやめることだった。勤務時間の標準化を推進することで、逆に生産性が下がってしまうこともある。我々は、社員がベストな状態で働くことを阻害する要因を取り除くために、ルールを変えるようにしている。生活のバランスを阻害するルールは持たない。

会社のゴールは、社員のために、「生活」と「生計を立てる」ことの2つを、1つの同じものにすることだ。社員が製品やプロジェクトに興味を持たないビジネスは、どんなものであっても絶対に成功しない。自分がやりたいという意欲を持てない仕事は、はじめからするものではない。社員を最優先に考えるからこそ、彼らの中に、最高の仕事をしようとするやる気が起こるものだと信じている。

社員が成功することで、企業も成功する。また、社員全員が、仕事に情熱を持つことを期待してはいけない。すべての仕事が、情熱をもつに値するものではないという現実に目をそむけてはいけない。人の興味というのは、高まることもあれば、低くなることもある。そういうサイクルがあることを理解しておく必要がある。

社員が、仕事の範囲を自分自身で決めることができるのであれば、仕事に対する満足度はかなり高まる。我々は、社員に、仕事の責任範囲を押し付けることはしない。一人前の大人として、彼らは、仕事で何をすべきかを理解すると信じているし、ガイドラインなどない方が、彼ら自身が自分のすべき仕事の範囲を、試行錯誤しながら学んでくれる。社員は自分の仕事の内容を、自由に決められる。場所、働く時間、給与の額までを自分自身で決めている。

人々の生活を改善する機会に恵まれることは、ほかの会社で3倍の給料をもらうことよりも価値のあるものなのだ。これこそが、まさに「天職」を意味する。

「現在、セムコ社には空いているポジションはありません。でも、とにかく応募してみてください。来社いただき、会社のためにあなたができること、そして、どうやったら会社が、そのポジションをつくり出せるのかご提案ください」
我々は、人を会社に惹きつけ、応募者の天賦の才能と会社のニーズを合致させる方法を常に模索している。雇用形態としては、手数料制や歩合制、成功報酬、業務委託といった形をとる。

人は、自分自身と家族の繁栄を求める。だからこそ、人は人生の目的と合致する天職を必要とする。才能を発見するためのプロセスは、その人だけでなく、会社にとっても大きな価値のあることなのだ。

我々は、誰もが、一生を賭けてでも追い求める価値があるものを知りたい、かつ、それを必要としていると考えている。

人が持てる最高額の富は、1200万ドルである。人は不釣り合いな家では、居心地よくなれない。大金持ちになると、その金額の持つ意味はすべて同じ。それ以上にお金を持つことで、彼らが本当に必要としているものを手に入れることができるということはない。

今日では、優良企業をオーケストラのシンフォニーになぞらえることが多くなった。オーケストラを奏でるまでには、何時間もの練習や難しいメロディーを覚えたり、尊大な指揮者に合わせる努力、そして、演奏家間の口論や中傷、賃金の問題などがあり、決して平たんな道のりではない。オーケストラの場合、演奏家は、共通の楽譜を見て演奏する。企業の場合、その楽譜にあたるものがミッションステートメントである。オーケストラのゴールは、演奏家としての成長と満足感を求めながら、聴衆のために音楽を奏でることだ。企業におけるミッションは、オーケストラと何ら変わることはない。自動車を製造することと、モーツァルトを演奏することは、同じことなのだ。オーケストラの演奏家がプロとしてのスキルの向上と満足を求めるように、会社は社員が仕事への興味と能力アップを追求したくなるよう支援しなければならない。

セムコには、ミッションステートメントもクレドもないが、生き残るためのマニュアルがある。職場の仲間がお互いに注意しあうことは、上司への報告を徹底したり、監査を厳しくするのと同じ効果がある。

監査や管理は、人は悪意を働くことを前提とした行為であり、それはすなわち社員を信頼していない証拠だ。

会社がさまざまな機会を社員に提供して、彼らが仕事・職場を自由に選択することを容認すると、社員は自分の可能性を求めて天職を発見することが可能になる。ベテランと新人の机を並べるように配置するのは、新人にできるだけ彼の経験を教えてほしいから。そうすれば、彼らはお互いに学びあうことができる。そして、社内には人材と経験に基づいた知恵が残り、それが社内に文化と会社に必要とされる最小限の価値観を生み出す。たとえ最小限の価値観であっても、それが社内でお互い一緒に働きたいという動機・理由になればよいのだ。

誠実であることは、最低限の守られるべきルールだ。

経営者がわざわざ会社の価値観なるものを書き出す必要もない。共有の価値観は、何年もかけて自然に育まれるものだ。ある日、気がついてみたら、皆がそれに従っている、そういうものだ。

コントロールをやめることは、すなわち情報の独占をやめることでもある。2週間前のプレゼンテーションは、1か月前の新聞と同じようなものだ。オープンコミュニケーションは、多少の代償があるにしても、実施する価値のあるものだ。それは、組織内に共有文化を育むための核になるほど重要なものだ。給与がタブーなトピックであるとするなら、どういう情報が制約のないものなのだろう。組織における唯一のパワーの源泉は情報だ。Eメールを制限したり、それに手を加えたりすると、不正な権力の温床になる。他人が知らない情報に通じている人がいる。会社は、こうした温床を取り除き、社内の不満や口論、権力闘争の元凶を断っておくのだ。

自由の意味を正しく理解できない人にとっては、自由=混乱であると解釈してしまう。クライアントに完全に率直に向き合うことが、結果的に最も生産性を高める方法であると実感している。これまでに幾度となく、クライアントに我々の利益予想を見せてきた。相手は、まさかと驚きますが、このあとには、大抵よい結果が生まれる。

社員は、会社の実態を知ることで、より長く会社で働くことを希望し、景気の変動に対しても正しく理解を示すようになる。

民主制度のもとでは、異なる意見・考え方があるからと言って、それを無視したり処罰してはならない。時には、会社に不満を述べて組織をかき乱すようなことがあるかもしれない。それでも、当の本人を罰してはならない。それを罰してしまえば、民主制度はその瞬間に崩壊し、誰も自分の意見を言えなくなってしまう。人はそれぞれ見方、考え方、意見が異なるものであり、どんな主張にもそれなりの根拠があり、何が正しく何が間違いであるなどと判断することはできない。

セムコでは、社員の席は決まっていない。なので、毎日、年齢や経験の異なる人と隣り合わせに座ることになる。また、ジョブローテーションによってメンバーが頻繁に入れ替わることで、部門ごとに特有の考え方がなくなっていく。人は、外見が同じようにみえる必要もなければ、同じように働く必要もない。こうすると、社員の中に、他の部門の立場を理解し、擁護する考え方が育ってくる。なぜなら、自分が希望して別の部門で働いた経験を持つ人が増えるからだ。この結果、社員は、他人に対して理解する心をもつようになる。

画一性は、会社にとっては危険この上ない。セムコには、すべての人を受け入れる場所が用意されている。

石器時代には、新参者を受け入れるときに、すべてグループの承認に基づいて決定がなされた。集団面接を何度も繰り返すことで、面接を終えるころには、志願者は、会社との相性と自身の目標と会社の目標とのバランスを理解するようになる。こうして職を得た新人は、職場に来た初日であっても、すでに自分のことを知っている親近感を持てる相手が身近にいると感じるのだ。そして、周りの人は、彼をチームに迎え入れ、彼の仕事がうまくいくようにサポートしようとする。雇用までの期間としては、時間がかかるかもしれないが、そのあとに生み出される生産性と持続性は、その損失した時間を大いに補って余りあるものになる。

異なるバックグランド、価値観、考え方を持つ人を交流させることで、そこには常に文化の発展がみられるようになる。社員の締め付けをやめ、コントロールを排除することが、生産性を格段に高める。社員が、自らが働くことに価値を見出し、朝起きて仕事に出かけようとする意欲を持つことが、唯一生産性を高める方法なのだ。

何十人もの人とうまく折り合いをつけることは誰もできない。人が通常、対処できる人の数は最高6人。6人から10人で構成されるグループであれば、お互いをよく理解することができるため、外部からコントロールする必要もない。6人6グループのほうが、36人1グループより好ましい。

人の行動を監視することは、窃盗よりも危険な行為だという信念を持っている。

もしそのプロジェクトやミーティングに興味がないのなら、その分のエネルギーを他のもののために取っておくべきだ。

私は、他の誰かができる仕事はやらないようにしている。経営者としての私の役割は、会社におけるすべてのことを1から見直すように促すことだと考えている。

リーダーが英雄になったとたん、社員が上部に権限を譲りはじめる。そして、リーダーは、常に天才だと描写される自分の評価を信じるようになる。やがて、リーダーは、自分の部下を、自分の価値観や考え方、情熱のあらわれであるミッションに、自動的に従う使用人とみなすようになる。社員の意見を聞いた、確かに聞いたのだけれど、結局は自分の考えに従って行動してしまっていては、意味がないことに気付くべきだ。

状況が変われば、リーダーシップのあり方も変わらなければならない。状況に即したリーダーシップは、どんな状況が変わろうとも不変だ。それはコントロールを放棄することなのだ。

何をするかが重要視される。決してどんな立場で、誰を管理しているなどということは重要ではない。

私の人生は、さながら、行き着くところが、行きたいところといったところだろう。人生と同じくビジネスにおいても、その道程は、気ままで思いがけない出来事の連続だ。なので、自然の成り行きに任せることが一番よいと思う。

許可を願うより、許しを請え。データよりも、直観を信じる。奇抜なことを評価する。数字で経営はできない。

わが社の成功は、社員の成功のおこぼれを預かっているに過ぎない。

経営学 小倉昌男

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

たとえどれだけすぐれていようとも、経営者の過去の成功体験が、時代が変わって新しい仕事を始めるときに大きな妨げになることがある。それをこのときほど痛感したことはなかった。

過小資本、借金だらけの財務、古い能率の上がらない設備、作業効率の低さ、ぎすぎすした労使関係、収入の頭打ち、利益の低下。これらが相互に原因となり結果となって、身動きの取れない状態が続いていた。つくづく何とかしてこの悪い循環を脱却したいと、頭を悩ます毎日であった。とはいってもよい循環も悪い循環も、一朝一夕に起きるものではない。十年二十年と長い年月のうちに出来上がるものなのだ。では、良い循環を起こす出発点は何だろうか。基本的な条件は、「よく働くこと」である。商店でいえば、隣の店より朝は一時間早く店を開け、夜は一時間遅く店を閉めることから始まる。トラック会社もそうで、地方に本社のある他者の従業員は、ヤマト運輸より良く働いていることは間違いなかった。ヤマトは、本社が東京で労働組合もしっかりしていたから、長時間労働を強制することはできなかった。ヤマト運輸は、どこをよい循環の出発点にすべきであるか。考えた末、私はこう決断した。まず、労働生産性を高めよう。

一生懸命頑張ってネットワークを作り上げる。そのネットワークの上を毎日荷物が流れていく。それがある日、ある数を越した時、ジワリと利益が滲み出てくる。だんだん滲み出る日が多くなると、ネットワークのどこからか利益がぽたりぽたりと滴り落ちる。そしてやがてそれが集まって、ちょろちょろと溜まり始める。どこから出てくるのかはわからないが、全体として利益が出る。ネットワーク事業というものはそんなものではないだろうか。そんなイメージが頭の中に浮かび上がった私は、宅急便が成功するかどうかのカギは、「荷物の密度」ではないかと推測した。

サービスの差別化をキーワードとして宅急便を展開していて問題になったのは、サービスレベルを数値として把握できないか、ということであった。具体的にサービスレベルをあらわせなければ、いくら他より優れたサービスだといっても、独りよがりにすぎない。

サービスを提供する供給側の論理と、サービスを受ける利用者の論理は、正反対の場合が多い。供給者はとかく自分の立場に立って考える。つまり、自分の都合を中心に考えるのである。でも、それは間違っていないか。よく、レストランで食事をしている客が従業員の態度が良くないと言って怒ることがある。経営者は「従業員には接客態度について厳しく教育しています」と言うだろうが、実際の現場では、従業員同士がおしゃべりに夢中で客が呼んでも気がつかないケースなどが日常茶飯事だったりする。

サービスとコストは常にトレードオフの関係にある。サービス水準を上げればコストは上がり、コストを抑えればサービス水準も下がる。経営者の仕事とは、この問題を頭に入れ、そのときそのときでどちらを優先するかを決断することに他ならない。宅急便事業を始めるにあたって私が決断したのは、「サービスが先、利益は後」ということだった。サービスを向上してまず郵便小包などと差別化を図らなければ、結局、利益の上がる事業にはならないと考えたのである。設備投資や社員採用を決断する時も、この発想が必要である。大和が「社員が先、荷物は後」「車が先、荷物が後」というモットーを掲げ、社員数や集配車両の台数を積極的に増やしてきたのも、その時点の荷物の量に合わせて社員や車の台数をそろえたのでは市場は広がらない、社員や台数を増やし、サービス水準を上げることで潜在需要を開拓しようと判断したからであった。

「サービスが先、利益は後」これからはこのモットーを金科玉条として守ってほしい、と私は宣言したのである。営業所を新設したラプラスかマイナスか。そんなことは議論の余地のない問題である。宅急便を始めた以上、荷物の密度がある線以上になれば黒字になり、ある線以下ならば赤字になる。従って荷物の密度をできるだけ早く、濃くするのは至上命令である。そのためには、サービスを向上して差別化を図らなければならない。コストが上がるからやめる、というのはこの場合、考え方としておかしい。サービスとコストはトレードオフだが、両方の条件を比較検討して選択するという問題ではない。どちらを優先するかの判断の問題なのである。だから、手間暇かけてメリットやコストの計算をするのはやめてほしい。それよりも、サービスを向上するにはどうしたらよいか、それだけを考え、実行してほしい。私は皆にそう訴えた。そこで「サービスが先、利益が後」のモットーを作ったわけである。「サービスが先、利益が後」というのは、社長だから言える言葉である。だからこそ、逆に社長が言わなければならない言葉である。

前は、本当に労災事故が多かった。でも、人命の尊さを考えたとき、何としても事故を減らさなければならない。それで考えたのは、能率を上げることだけを言っているうちは事故はなくならないということだった。その気持ちを表すために、「安全第一、能率第二」という標語を工場内に掲げた。時間が経つにつれて安全の実績は徐々に上がったが、能率は決して落ちなかったという。安全も能率も、どちらもしっかりやれと言っていた自分は、結局どちらも中途半端だった。なんでも第一の社長は「戦術レベル」の社長である。うちの会社の現状では何が第一で、何が第二、とはっきり指示できる社長は「戦略レベル」の社長である。

私の結論は、上司の目は頼りにならないということであった。ただ、社員にとってみれば、仕事をやってもやらなくても評価が同じでは納得しない。一生懸命やった人とやらなかった人に差をつけなければ、公正さが疑われ、社内秩序が維持できなくなる恐れもあるわけである。そこで考えたのは、「下からの評価」と「横からの評価」。下からの評価は部下による評価、横からの評価とは同僚による評価である。そして評価項目は実績ではない、人柄だ。誠実であるか、裏表がないか、利己主義ではなく助け合いの気持ちがあるか、思いやりの気持ちがあるかなど、人柄に関する項目に点をつける。体操の祭典のように、複数の社員の祭典を集め、最高点と最低の点を外し、残りを足して平均点を出す。つまり多くの目で評価する。もちろん単独ではなく、他の制度と併用するのであるが、私は、人柄の良い社員はお客様に喜ばれる良い社員になると信じている。

私は、経営者には「論理的思考」と「高い倫理観」が不可欠だと考えている。経営は論理の積み重ねである。したがって論理的思考ができない人に、経営者となる資格はない。また、経営者は自立の精神を持たねばならない。しかし今、社会はボーダーレス化が進んでおり、どこに競争相手がいるかわからない。常に論理的に考えて、攻める姿勢が必要なのだ。併せて経営者には高い倫理観を持ってほしい。社員は経営者を常に見ている。トップが自らの態度で示してこそ企業全体の倫理感も高まると、私は信じている。

経営にメリハリをつけるのも、戦略的な考え方である。第一を強調するためには、第二を設定すればよい。

攻めの経営の神髄は、需要をつくり出すところにある。需要はあるものではなく、つくるものである。

マスコミを宣伝に利用しようと考える経営者も多いと思う。だが新聞記者は自分の仕事にプライドを持っているから、安易に利用しようと思っても拒否されるのがおちである。マスコミの使命は、新しい情報を一刻も早く伝達する子tだから、消費者に関係のあるニュースは必ず取り上げてもらえる。記事の中で取り上げてもらういわゆるパブリシティは、非常に効果があるもので、高い広告費を使った宣伝より、はるかに有効である。宣伝と広報は違う。経営者は、すぐれた広報マインドを持つことが必要とされていることを知らなければならない。

経営者は、常にプラスの施行をする必要があると思う。「ねあか」の経営者が成功しているのは、決して偶然ではない。新日鉄の稲山氏に感心したのは、常磐津を愛好する仲間が料亭に集まる会で、私などは酒の席なので、他人の唄はあまり身を入れて聞いていなかったが、稲山氏だけは違っていた。感心したのは、真剣に聞いておられただけでなく、どんな下手な唄でも決して悪く言われないことであった。初心者には、声が大きくてよろしい、うまくなるから頑張りなさい、と言われる。必ず何か褒められるのである。しみじみ器量の大きい人は違う、と思ったものである。他人の人格を尊重し、長所を見つけて認めるという点で、経営者として大事な資質について教えられたのである。

企業の目的は、永続することだと思うのである。永続するためには、利益が出ていなければならない。つまり利益は、手段であり、また企業活動の結果である。企業は社会的な存在である。土地や機械といった資本を有効に稼働させ、財やサービスを地域社会に提供して、国民の生活を保持する役目を担っている。さらに雇用の機会を地域に与えることによって、住民の生活を支えている。企業は永続的に活動を続けることが必要であり、そのために利益を必要としているのである。もし海外から資本だけが来て利益を上げ、その利益を国外に引き上げたら、地域にとって企業の存在価値は認められないと思う。

私は個人的に、人間として大事なことは「真ごころ」と「思いやり」だと思っている。顧客に対しても、社員に対しても、「真ごころ」と「思いやり」で接することを信条としてやってきた。経営トップがひとり高い倫理を誇っても、社徳の高い会社にはならない。社員全員の倫理性が高くてこそ、社徳の高い会社といえるのである。それにはまず、トップが先頭に立ち、高い目標を目指して歩まなければならないのである。

指一本の執念が勝負を決める 冨山和彦

6月 17th, 2011 § 0 comments § permalink

少子高齢化、女性の社会進出、そして世界的競争激化と成長鈍化の現実。終身雇用と年功制が社会の大半を持続的にカバーすることは絶対に不可能。

国も地方も財政は破綻寸前。政府は国債を中心に約800兆円の長期債務を抱えている。地方自治体の6割が赤字といわれている。

これまでの歴史をみると、危機的な状況に陥っているにもかかわらず、旧体制が温存されて、中途半端な緩和策をやった挙句に、全体がもたなくなって、最後は革命が起きるのです。それが、人類が繰り返してきた歴史なのです。

いまの日本は社会も個人も、意識が全部内に向いています。いじめや引きこもり、家族で殺し合い、格差問題にしてもそうです。難しいのは、日本が直面している困難差というのが、本当は外と戦っていることによって引き起こされているというところです。いまは昔と違って静かだけれども、非常に厳しい経済戦争を、個人のレベルでやらなければいけないのです。その問題をないかのごとく、議論を一生懸命、きなこやお砂糖でまぶして、格差だ、格差だと、内に議論を向かせるから、全部不健康な議論になるのです。明らかに今の日本人の、日本社会の精神構造は不健康です。中国やインドには、10億人を超える人口がいて、日本人はそのトップ10%の頭脳と戦わなければならないのです。ところが、日本のビジネスモデルが称賛され始めた80年代から、この国はすごくゆるい社会になってしまって、社会自体が一人ひとりの人間に対してかけているプレッシャーの重さやきつさがどんどん軽くなっているのです。受験のプレッシャーなんていうのは、しょせん、ごっこなんです。人間の根源的なプレッシャ-というのは、生きるか死ぬか、飢えるかどうかなんです。本当の意味でのストレス耐性がすごく弱くなってしまった。それが、リーダーの最も重要な資質であるにもかかわらずです。これからは、ストレス耐性のものすごく強い新興国のエリートたちと、嫌でも競わなくちゃ生きていけない。だから、問題は深刻なのです。

いま日本人が手にしている「既得権」が、10年先、20年先もそのまま手の中にあるなどと甘い考えでいたら、大変なことになります。

私はこの社会の上部構造が腐っていると言いましたが、それでは、その中にいる人たちが個人として腐敗しているかといったら、そういう見方では本質から外れます。最初から腐っているわけではなくて、構造として腐っているところに身を置いたら、誰だって腐った行動をとらざるを得ないのです。私が再生を担当した企業には、92年のバブル崩壊以降、新卒を一人も採用していなかったところが何社もありました。でも、それは人間の本性なのです。とりあえず、その建物の中でみんなでぬくぬくやっているわけですから、それをわざわざぶっ壊して、寒風吹きすさぶところで建物を空っぽにして、基礎工事からやり直すなんて、よほど勇気がなければ出来ることではありません。

映画「北の零年」を見ればわかるように、明治になったら武士だった人たちが北海道に移住して、農民になったりしたわけです。そうなると、剣術とか儒教だとか、武士として身につけた教養は全く役に立たないのです。ほんの60年、第二次世界大戦前後の日本の歴史を振り返るだけで、国の在り方が変わってしまえば、勝ち組も瞬時に負け組となることがよくわかります。平和な時代しか知らない若い人たちは、お金や不動産があればと思うかもしれませんが、戦後のハイパーインフレを経験した年配の方たちは、上部構造が崩れる時は、そういったものすら頼りにならないことを経験しています。国という、世の組織の中でも最も大きく信頼すべきものが、一つの個人、一つの家族にとって、いざという時にいかに頼りないものになってしまうのか。逆に祖国というものを喪失する状況に置かれたときに、私たちがアイデンティティの危機と対峙することがいかに困難か。祖国と個人、対立概念のようであり、実は不可分な関係にある、両者のデリケートで不確実な現実の中を、私たちは日々の人生を生きていることを片時も忘れてはならない。

リーグ戦を戦い抜いてきたやつのほうが、トーナメント制のエリートよりも強い。負けを知っている分だけ実力があるのです。トーナメント戦というのは、負けを知っているやつは残っていませんからね。

今のように変化の激しい時代に、未来を予測するのは困難ですし、個々人がどう生きればいいのか、私にもアドバイスすることはできません。ただ、一つだけ言えることは、変化というのは、能力のある人にとって、大きなチャンスにもなりうるということです。

私は江商の倒産とその後の父の人生を見てきて、つくづく「人生は糾える縄の如し」だと思いました。不運だと思ったことがチャンスだったり、得だと思ってやってたことが、そうでもなかったり。それと、会社はつぶれるものなんだ、永遠不滅の組織なんてないんだと身をもって体験できた。

カイシャ幕藩体制が崩壊するということは、これまで日本が営々と築き上げてきた仕組み、雇用保証だの、社会保障だのといったものは、もうあてにならなくなる可能性を意味します。ですが、それは同時に、我々日本人が本当に自分の頭で考え、創造的な活動をするスタート地点でもあるのです。そして、そのような時代こそ、真のリーダーが育つし、突然変異的に現れてきたりするものなのです。

人が役に立つか立たないかの分かれ目は、その人にストレス耐性があるかないかなのです。頭がいいとか悪いとかに関係なく、ストレス耐性のない人は、本当に戦ってほしい局面で機能しなくなるのです。

よく経営責任と言いますが、経営責任というのを突き詰めると、最終的には自分以外の人たちの人生に対する責任なのです。だけれども、それって実はとれないんです。とりようんがないのです。そういう意味でいうと、経営者には、責任をとれないぐらい重い責任があるわけです。その実感というのは、そういう現実に直面しないと、ピンとこないんですよ。人間というのは、自分が体験していないことはほとんどの場合、想像できません。イマジネーションの源泉って体験ですから。誰であっても、せいぜいできることは、自分とかかわりをもってよかったと思ってもらえるように、全力を尽くすことだけだと思うのです。

本当に追い詰められないと、それぞれの人間の本性って分からない。ある意味で、人間って追い詰められれば追い詰められるほど、それぞれの人が持っているモチベーションの奴隷なのです。最後はみんな自分の寄って立つものに正直になるということです。会社の立場からすると、ある人の行動は裏切りに見えるし、ある人の行動は美しく見えるんだけども、それも結局はそれぞれの事情があることで、どちらが正しいとか正しくないとは言えないのです。だから、「忠臣蔵」の話によく似ているんですよ。四十七士になった人もならなかった人も、どちらが立派ということはない。善悪一如なのです。それまでの私自身の人間観というのは、今よりももうちょっと単純で、善と悪とか、徳のある人徳のない人、品格のある人ない人、有能な人無能な人、頭がいい人と悪い人といった、白黒はっきりした、素朴なものだったと思うのです。それが、経営のリアリズムというのを嫌というほど思い知らされて、結局、人にとって善悪というのは、コインの裏表みたいなものなんだなということに気づきました。だって、リストラされる方にしてみれば、首を切る側である私は、ものすごい悪人ということになりますから。

自分たちの会社の立て直しで分かったことは、人をリストラしなくちゃいけないような状況に陥った時、対処のポイントは、とにかく誠心誠意を尽くすということなのです。それが一番正しい姿勢で、具体的にどうしたかといえば、とにかく、やめてもらう社員の次の就職先を縁故でも何でもいいから、必死になって探しました。本人がそれを受けるかどうかは別にして。それから、何とか規定の退職金を会社都合で高めに払ってあげられるように、金策に走ったのです。大変なのは、この二つをやりながら本業をやらなければいけないことでした。会社というのは、傾いてくると、ぐじゃぐじゃになっていくのです。リストラとかで本業にエネルギーを割けなくなると、本業が余計に落ち込む。その結果、お金が詰まる。そうやってどんどん悪いスパイラルにはまってしまうのです。その時の体験があるから、会社がつぶれるときというのは、こういう風になっていくんだなというのがわかったんです。わかったんだけど、つぶすわけにはいかないから、そこはもう、社長を中心に皆で頑張るしかないわけです。社員の職探し、金策、本業、この三つを全部フル回転でやるしか選択肢がないいんだから、本当に努力と根性の世界なのです。そういう状態が続くと、ストレスと負荷がかかってくるわけです。だから、何か不祥事が起きたり、傾きかけた会社の社長というのは、睡眠不足と疲れで思考力が鈍ってしまって、間違った判断をしてしまいがちなのです。でも、そういったストレスが合わないと思うような人は、経営者になること自体を辞めた方がいい。

だから、たとえ負けることになっても、若い時に危機的状況に身をさらしてみて、自分がどういう人間なのか、確認する機会を持った方がいいと思います。人は自分を自分で理解しているようでいて、やはり、行動してみないとわからない部分が多分にありますから。「自分がそう思いたい自分」を本当の自分だと思い込んで、本当は精神的に脆い人間なのに、タフだという前提で修羅場に入ってしまうと、周囲にも迷惑をかけるし、心身共に病んで、職場から撤退ということになりかねません。

現実の企業は多かれ少なかれ、言語領域やバックグラウンドの多様性を抱えこんでいますから、それを一つにまとめていく経営者という仕事は、本当に大変だなあと思いました。

もうひとつわかったことは、理解しても合理的に行動しない人というのは、必ずその人なりの理由があるということです。そういう場合は、個人のインセンティブが別のところに働いているのです。一人ひとりと話していくと、そういうことがわかってくるわけです。それぞれの人生があって、それぞれの価値観があって、各人それぞれが持っている動機づけとかインセンティブに対して忠実に行動すると、必ずしも、会社が目指すべき方向へ全員が走ってくれるわけではないのです。個人としていくら優秀でも、反対向きの強烈な動機づけが働いていると、その人の存在は組織にとってマイナスに働いてしまいます。個人としての益と会社の益、もっと言えば公の益というのを同じ方向に向けることがすごく大事なのです。非常に難しいけれども、それが一緒になれば、ものすごい力がでる。反対に、逆向きのモチベーションしかない人に、いくらガンバリズムでがんばれ、がんばれと言っても、意味のないストレスを生むだけです。

会社が倒れていくプロセスというのは非常に人間的な、生々しいものです。週刊誌とか新聞といったメディアも、会社の経営が傾くと、トップがとんでもないバカで、上司に取り入っただけで偉くなったのだとか、あんな無能なやつがトップに立っているから日本の会社はダメなんだという論調で書くでしょう。だけど、それは違う。明らかに違います。そんな単純な話ではないのです。会社がどの方向性に舵取りしたらいいかなんて話は、まっキンゼーでも雇えば、当たり前の正しい結論を出してくれます。当たり前の結論は出てくるのですが、戦略的な合理性で組織全体を引っ張って行けるか、あるいはそういう合意が作れるか、多数派がそれを形成できて、みんながそうなるように、シーソーをばったんと反対側に倒せるかどうか、そこが成否のカギであり、難しいところなのです。そして、たいていはそれができないのです。それは結局のところ、人間の強さ弱さの問題だからです。たとえば人間を半分に減らすことが合理的で正しい判断だとしても、実行すれば内外からすごく叩かれます。それはそういう批判をされた人じゃないとわかりません。公で叩かれるということは、実は内側の世界では、身内からはその何倍もたたかれ、批判されているんですよ。それこそ、怪文書みたいなものがいっぱい出まくっているんです。戦略的合理性を貫こうとしたら、その過程で、聞くも涙、語るも涙の話がいっぱい起きてくるのです。人間は生身ですから、だれしも感情というものはもっているので、やはり自分の良心が痛むわけです。そういう状況に立たされた時に、どうしても判断は、間違った方向に振れていくんですよ。

傍から見ていて、何が変われなかったのか、撤退できなかったのかというのは簡単です。でも、ここが肝心なところですが、現実のリーダーというのは、そういう立場にいないということが理解できないと、本質は見えてきません。自分が当事者としていろいろなしがらみを背負ってその中にいて、それでも、戦略的に合理的な行動ができるのかという話なのです。そういう難しい状況に立たされた場合に大事なのは、トヨタの張富士夫さんが言うように、どこまで「なぜ」ということを突き詰められるかなんです。たとえば、「カネボウは繊維から撤退できなかった。愚かなりしや」ということをいうでしょう。そこで、「頭が悪いから」と結論づけちゃうような人は、基本的に経営者として失格です。そういう人は、現実のリーダーとして機能しないのです。

「3日間くらい、寝不足続きに考えたとしても、間違いない判断が出せるようでなければ、経営者とはいえない。平常のときには問題がないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での判断の間違いが企業を破滅させた例を多く知っている。……50で死んだ信長には男性的展開の未来が画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない」藤沢武夫

これは元プロ選手から聞いた話なのですが、テニスの世界では、世界ランキングのトップ100というのは、ほとんど技量差がないというのです。実力はほぼ均衡していると。じゃあ、何が勝負を決するかといったら、指一本の執念なのです。トップまで行くやつというのは、やっぱりその辺の集中力、執念というのが、人間業じゃないくらいすごい。

世の中には、頭のいい奴なんか、腐るほどいます。問題は追い詰められた状況かで、どれだけ目の前の問題の、何が重要で、何が重要じゃないかということを整理して、最終的に決断できるかどうかなのです。多くは実力が伯仲する中で、理性を失った側が負けているのです。逆にいえば、心身ともにタフなやつが勝つのです。

自分の立てた目標なり決断なりが達成できなければ、責任をとるというのが、真のリーダーの在り方です。決断もできなければ、責任も取りたくない人間なんて、本来、人の上に立ってはいけないのです。

いまコンプライアンスがどうのこうのと大騒ぎしていますが、ガバナンスの本当の仕事は経営者の首を切ることです。いざというときに経営者の首を切れるかどうかが、ガバナンスのすべてなのです。それがないガバナンスには意味はありません。ですから本来、ガバナンスする側にも、経営者と同じような責任が伴うものなのです。だけどそれを言ったらみんな逃げ腰になってしまうので、そこのところを曖昧にしているわけです。本当のガバナンスを効かせられる人というのは、いざというときに自分が社長と代わる覚悟をもっている人だけなのです。具体的な局面で迫力を効かせられるのは、「だったら俺、社長代われるよ」と言えるかどうかなのです。戦場でびゅんびゅん弾が飛んでくるところに立つと、本気で戦う気のない奴なんてすぐ見透かすことができる。そういうやつは怖くもなんともないですよ。絶対俺の命はこいつなんかに取れないなと思いますから。問題なのは、日本の社会にそういう迫力のある人がものすごく減っているということです。

負け戦を体験するなら若いうちです。偉くなってから負け戦になってしまうと、責任を取らされて、レッテルを貼られてしまいます。そこから這い上がるのは、今の日本ではかなり厳しい。一番最悪なのは、若いのに、「ここでこう、うまく勝ちゲームにして、ここでリターンを取って」というような計算をすることです。日本社会の現実を見つめたとき、30代半ばまではしょせんただの若造です。ということは、逆に言うと責任も問われていないのです。そういう最高の社会勉強ができるときに、小賢しく立ち回っても、長い目で見ると、大きな仕事ができる人間には育ちません。「大欲は無欲に似たり」というのは徒然草の中に出てくる言葉ですが、大人というのは、本来、小欲に惑わされたりしない人のことをいうのです。

逆に曲者なのは、仕事ができて、部下に手柄を譲るような上司です。よく見ると権限委譲していないことが多いのです。全部自分でシナリオを描いて、絶対大丈夫なように保険をかけておいて、最後のいいところだけを若手に花をもたせて、拍手喝采を取っていい気持にさせたりするのです。本当に育てようと思ったら、あえてかかわらない方がいいのです。ダメな上司であろうが、有能な上司であろうが、若いうちは誰からでも実は学べるはずです。自分自身は無に近い所にいるのですから、スポンジみたいなものです。だから、自分の身の不幸を嘆くのが一番非生産的な態度なんです。悪口ばかり言ってるなんてもったいない。自分が飛躍するチャンスがどちらにあるかといったら、不遇なとき、間違いなく無能な上司のときです。

私が若い人に悪い環境に身を置けとしきりに勧めるのは、人間は弱くて怠惰な生き物だからです。人間が弱くて怠惰だという前提がある限り、何らかのプレッシャーなり、規律なり、競争なり、圧力が働かないと、そんなに努力はしません。歩く道に石ころがなくて、きれいに舗装されていたら、足腰は強くならないんです。人生には予期せぬ環境の変化とか逆境の訪れるときが、1度や2度、必ずあるものなんです。そのとき、急坂の山道を歩いていたり、道なき道を切り拓くような経験をしていれば、勘も働くし、大変な状況でもそれほど辛さを感じずに済むものです。だから、若い人たちには、競争から逃げるな、どうせ選ぶんだったらより難しい、自分の勝つ確率の低い場所に選びなさいと強く言いたい。そこで、負ける体験をしてほしいのです。若いときなら負けたって、いくらでも立ち上がれますから。

ビジネススクールで、志願者に自分の失敗についてエッセイを書かせるところがあります。それは、すごく大事なことなのです。向こうの感覚で言うと、たいした失敗のない人間というのは、魅力がないのです。失敗がないということは、勝負していないということです。だから、失敗がないというのは、本当の有能の証ではないのです。勝負していないことの証なんです。

大事なことは、若い時にあまり認められようと思わないことです。みんなに愛されようと思わない。嫌われ、憎まれ、生意気と言われることを恐れないことです。生意気と言われなくなったらおしまいです。とくに若い人は、生意気でいいのです。ちゃんとした目的をもって、勝負して勝負して生意気と言われるのなら、これは仕方がない。人間は、勝負しないと強くなりませんから。ですから若い時は大企業でも中小企業でも、今いる舞台の大きさは何でもいいから勝負して、生意気こいてぼこぼこにされてほしいですね。で、また懲りずに生意気こいて、ぼこぼこにされて、それを5年、10年と繰り返すんです。その時世の中がどうなっているかわからないけども、その人は間違いなく成長しているはずです。

若者がそういう風に真剣にガチンコ勝負に出てきたら、もう一つのポイントは、大人がちゃんと叩いてあげることです。面と向かって、「おまえは馬鹿だ」と言うのはしんどいことです。いまどきの大人は、自分がゆるく生きてきて、自分もガチンコ勝負をしてきていないから、そこで叩けないのです。逃げるんですよ。あるいは、裏に回って悪口を言ったりするんです。怒るというのは、相手以上に相手のやっていること、言っていることをわかっていないとできません。そうでないと、問題点を指摘できないから、実は怒るという行為は、知的にも感情的にも、すごくエネルギーがいるのです。私が見てきた限り、ほとんどの大人は十中八九、裏で悪口を言っているだけなんです。私のことを陰で生意気だといったやつはごまんといると思いますが、面と向かって論破しにかかった人はめったにいません。論戦を吹っかけてくれた人というのは、私に愛情をかけてくれた人です。面と向かって人を論破するというのは、その人の言うことに耳を傾け、理解して、なおかつ、自分の意見を持っていないとできませんから。でも、それこそが、次代を育てる大人の責務だと思うのです。上司はぜひ、愛をもって部下を叩いてあげてください。

好奇心のない人というのは、人を理解することに本質的に興味がないのです。人間的な不合理・不条理、あるいは、人のもっている情緒に流される、だらしない、情けない部分に対して愛着がもてないのです。好奇心をもつということは、人に愛情をもつということと同意語なのです。愛の反対は憎しみじゃなくて無関心といいますが、あれは本当です。憎しみがあれば、争いや摩擦からコミュニケーションが生まれることもありますが、無関心からは何も生まれません。

いま日本では、天職を探し求めて、フリーターを続けたり、転職を繰り返したりする、自分探し症候群に陥っている若者が少なくありません。ですが、たぶん自分なんか探しても分からないし、天職だって、探し歩いても見つからないのです。私はそういう現象が出てきたこと自体、今の日本にリアリティが欠けている証拠だと思っています。ですから、自分を探したい人、天職を見つけたい人は、何でもいいから、興味のあることを一生懸命やってみるのがいいと思います。一番いけないのは、自分を探すために、天職を探すために、何かをやりながら半身引いてしまうことです。どうか人生を探すのではなく、自分の人生を生きてください。そのためには逆説的なようですが、鏡に映った自分ばかりを見つめるのではなしに、周囲にいる人に関心を持って、観察することです。人は基本的には自分勝手で、自分にしか興味がない場合が多いのですが、それだからこそ、人に好奇心がもてる、愛情をもって見つけられるということは、素晴らしい武器になります。そして面白いことに、人に関心をもてばもつほど、自分のこともわかってくるものなのです。

本当に悩んだ時に、ハウツー本にその悩みに対する答えが書いてあることは絶対にありません。人はなぜ、なぜという問いかけをしながら生きている動物です。そのなぜの1個目、2回ぐらいというのは、時代背景とか状況によって変わっていくわけですが、5回、10回と、どんどんなぜを繰り返していった先にある人間の本性というのは、実はそれほど変わっているわけではありません。逆に変わっていないから、私たちが使っている民法も、一番最初に遡るとローマ法になるのです。つまりローマの時代から2000年、実は人間はたいして変わっていないともいえるわけです。社会的生き物としては進歩していないといってもいいかもしれません。たぶん古典の世界の方が、自分でものを考えるためのヒントを与えてくれます。答えはなくとも、ものを考えるということに対するベースというか、基盤を与えてくれる場合が多いのです。ビジネス書なんて、10年後だって90%以上残っていない可能性が高い。そういうものは、本当にオリジナルな解を模索しているときには、役に立たないのです。

私の判断基準は、結局、自分自身の価値基準に照らしてかっこいいかどうかなのです。私にとってかっこいいというのは、自分の心の奥底から湧き上がる思いや、やりたいことに従うことです。たとえそれが、世の中でよしとされている生き方や潮流とは逆向きのものであっても、一向にかまいません。むしろ、いま世の中で流行っているものを追いかける方が、私にとってはダサい生き方なのです。いい大学、いい会社に入って出世しますというモデルも同じことです。親だろうが社長だろうが先輩だろうが、第三者がどう思おうと、究極的には知ったこっちゃない。それは自分以外の人たちだし、その人たちの人生と自分の人生は絶対同一化できないのだから、そんなものは余計なお世話なんです。「あなたに決めてもらう必要はない」という思いが根底にあるので、私にとっては、自分がそれをやりたいかやりたくないか、好きか嫌いかの方が重要です。

人間というのは、だれもが自分という会社の経営者であり、リーダーです。たとえ小学生であっても、その年齢に応じた経営課題というものがあります。大学を卒業するまで、多くの人は返済するにしろしないにしろ、親からの借入金で運営資金を賄っているわけです。しかし、20代ともなれば、社会に出て働くことが収益の柱になるはずです。では、自分という会社はどんな商品を売り物にして、利益を出していくのか。5年先、10年先の会社はどのような規模で、どんな会社にしたいのか。そのためには、どこからお金を調達して、何に投資すべきか、そういったことを考えるのはあなたしかいません。恐い恐いでリスクを取らず、決断を先延ばしにして、はたしてその会社を長期にわたって運営することができるのでしょうか。敵が攻めてきているときに、2年も3年も決断に時間をかけていたら、気づいた時には死んでいます。少なくとも、マネジメントエリートを目指す若者は、目の前にある課題に対して、答えを先送りしてはいけません。

プロとしてリスクを取って生きていくこと、そして経営にかかわる仕事というのは、本質的に厳しく孤独なものです。自分を客観視する自分とは、言い換えれば極めて孤独な自分です。経営にかかわる責任は、最後の最後はすべて自分自身で受け止めるしかありません。しかし、生身の一人の人間というものは、だれしもそれほど強いものではないのです。私ももちろん例外ではありません。孤独や恐怖に眠れない夜や、夢の中でも迷っている自分と幾度となく遭遇してきましたし、これからもそうでしょう。そんなに弱い自分だからこそ、心が帰っていく場所をどこかに持っているということがどんなに救いになるか。弱くて情けない自分をありのままに受け止めてくれる家族や友人を持っていることは、ガチンコな生き方をする人にとって、とても大事なような気がします。

経営の本質というのは、難しさの本質なのです。経営の根底には、必ず経済功利性という冷徹な原理原則があります。要するに、売り上げからコストを引いた利益の出る取引をするということです。人間というのは極めて情緒的で不安定な生き物の上に、不器用なんです。習慣の奴隷でもありますしね。そういった、ある意味では、情理の奴隷に近い生き物なので、間違えるし、めげるし、問題を先送りしたがるのです。たとえば、コストを引いたら大赤字の老舗旅館を営業し続けるというような、経済合理性に反することをやってしまうのです。だから、この合理と情理をどう噛み合わせるかというところに、経営の難しさの本質が横たわっているのです。渋沢栄一は、人に「経営の要諦は」と問われて、「片手にそろばん、片手に論語」と言ったそうです。一方で、儲けという経済合理性の追求、他方で人間学、すなわち倫理学や哲学。経営の本質はもうほとんどそれに尽きるんですね。会社が倒産する原因も、その合理と情理の兼ね合いに端を発しているという点では、昔と同じです。だから、「それを超えていくのが経営ですよ」としか言いようがありません。

よく経営ってこうだ、ああだと言われますが、現実には経営に完成形はありません。そこで求められるのが「不断の自己否定」なのです。過去の自分を捨てることは、人間の本性に逆らうことです。だから徳川家康は、武田の騎馬軍団に三方が原で大敗北を喫して命からがら逃げかえった時、絵師のその時の惨めな姿を描かせて、生涯、床の間に飾っていたのです。人間の記憶というのは、基本的に嫌なことは出来るだけ忘れるようにできているそうです。自然に生きていれば、自分に都合の悪いことは忘れてしまう生き物だということです。家康の非凡さは、人間がいかに忘れやすい存在かをよく知っていたことでしょう。あの戦いで家康の家臣団の多くは、彼を守るために討ち死にしています。だから、家康は、いかに我は愚かなりしか、いかに力足らざるかということを決して忘れまいとしたのです。奢る可能性のある危険性を自ら戒めた。「初心忘るべからず」という諺は、そこから来ているのです。初心のときのフレッシュな、謙虚な気持ちを忘れるなという意味ではない。初心であったころの自分の下手さ加減、だめさ加減を忘れるなということなのです。人間は年をとったり、疲れてくると、どうしても自己革新、自己否定ができなくなります。長年築いてきたものを壊すことによって、すべてを失うのが怖くなるのです。

第三者として自分を冷静に見つめることができない人は、経営者とかリーダーのポジションを目指してはいけないのです。

再生機構が支援するような企業は、基本的なことができなくなっているケースがほとんどです。だから、それを基本に戻すというのは、従業員の人たちにしてみれば、昨日までと違うことをする、これまでの習慣を変えるということになります。人間というのは本質的に習慣の奴隷です。だから、それを変えるというのはだれしも嫌なのです。しかも、変えてもらおうとする相手は、例えば再建先が旅館だった場合には、仲居さんとか、掃除をやってる人たちだったりするわけです。借金を作って逃げてきたとか、変な男とくっついちゃってDVで逃げてきたとか、えてしてそういう人たちなのです。そうすると、好奇心のない人は、「所詮あいつらは、その程度の人間なんだ」というところで終ってしまうのです。しかし、本当に会社を再生したいと思ったら、そういう人たちをどうやったら勇気づけられて、動機づけられるのかを考えなければいけないわけです。それをするためには、少しでもそういう人たちの気持ちの中に入っていかないといけません。完全な自己同一化はできなくても、離れているものが少しでもどこかで重なり合ってこないと、相手の気持ちは分からないのです。相手の気持ちがわかって初めて、どういう風にものを言えばいいのか、あるいはどういう動機づけを与えれば、その人たちが応えてくれるのかがわかるからです。人の気持ちを知りたいと思ったら、その対象に対して好奇心を持たないとだめなのです。誰でも恋をしたら、相手の気持ちの中を知りたいと思いますよね。人を理解するということは、それと本質的には同じこと、実はほとんど相手を好きになることと同義なのです。本質的に人間が嫌いな人は、それが面倒くさくて、かったるくて、できないのです。おそらく、再生機構の若いスタッフにも、うちの仕事ではじめて家族以外の他人とディープな接触を持った人がいると思います。そこから何らかの感動を味わった人は、再生という仕事にはまってしまうのです。別の言葉でいえば、目の前の対象に好奇心を抱き、その人の苦悩と対峙することによって、はじめて人はプロフェッショナルになれるといえます。

経営者というのは、収益をあげなければならないとか、株主へ配当を払うとか、社会への貢献とか、いろいろな責任がありますが、他者との関わり、他の生きとし生ける人々の人生、あるいはその家族との関係で背負っている責任というのは、株主に対する責任とは次元が違います。全然次元が上なのです。これは比較にはなりません。なぜなら、株主というのは通常、出入りがあって一過性のものですが、社員は会社そのものですから。

人間の在り方というのは、結局、最後に何を自分が喜びとするかに還元されると思うのです。たとえば、政治家でも役人でも一流企業のトップでも、エリートは8割から9割、自己愛の塊で、最後には必ず保身に走ります。彼らは、人生の何を喜びとするかという点で広がりがないし、次元が低いからそうなるのです。ちょっと宗教的になってしまいますが、自己愛をそういった低レベルから解放し、もっと昇華していくと、自分以外のものに愛を注ぐ対象が移っていくんですね。自分が生きていることの実感がいちばん湧くのは、自分が何らかの仕事をしたり、頑張るなりして、自分以外のものをよりよくすることができたという実感をもった時だと思うのです。そのようなときに自分の存在をいちばん実感できるし、よかったなと思うわけです。とりあえずメシが食えるということ以上の上の次元で考えると、どんな小さな事であろうとも、多分、そうなのです。大切なのは、そういう生きている充実感とか喜びを人生の中でどれだけ味わえてきたかということです。おそらく、自己保身に走るエリートにしろ、自分の世界に引きこもる人にしろ、そうなってしまうのは、そういう実感をそれまでの人生であまり持ったことがない殻のです。エリートというのは、すごく抽象的な世界で仕事していることが多いので、意外と生きていることのリアルな実感が持てないのです。

もちろん生きていることによって、必然的に迷惑をかける相手もいます。私が産業再生機構で企業の再生を一生懸命やっていても、社員全員は救えません。辞めてもらう人もいっぱい出てくるわけで、彼らに対してどう考えたって、私の存在はネガティブにしか見えないはずです。でも、中にはポジティブに振れる人もいるわけで、全体としてみた場合に、ポジティブの方が多いから、何とか私たちはモチベーションを維持できているわけです。人によって違うでしょうが、多くの場合、人のために自分の存在が役立っているという実感、これに勝るものはないのです。所詮、自己満足なのですが、そのレベルまで自己愛が昇華されれば、自分の存在が人にとっても善になっていくはずだと思いたいですね。そういう意味でいえば、まず、私たちができることは、自分の目の前にいるお客様でも上司でも、あるいは家族でもいいのですが、その人のためなら、自己を犠牲にしてもいいと思える人のために、貢献を積み重ねることでしょう。

経営者というのは、人の人生に関わる仕事です。関わるということは、人の人生を壊しもするけれど、豊かにもするものなのです。少なくともいい経営をしていれば、より多くの人の人生を豊かにしているはずなのです。それはちゃんと相手も分かってくれるので、そういった自分の仲間なり、自分が経営にかかわった従業員との人間関係から得られるものこそが、経営の醍醐味になっていくのです。人間はみんなで一致団結して、何かを成し遂げたときの達成感、人生を共有している感じというのが、忘れられない生き物なのです。私はそこにこそ、経営者の報酬の本質があるような気がします。お金で買えるものは世の中でそれだけ安いものです。どんなに責任が重く、リスクはあっても、経営者には、多くの時空にわたって他者の人生により深くかかわり、より良い方向に変えていける可能性があります。ですからやはり「プロの経営者ほど素晴らしい仕事はない」のです。

私はこれからもずっと、ガチンコ勝負を続けていく。そこから得られるものの素晴らしさを知り、その虜になっているからだ。だから若い人たちにも、徹底的にかっこつけて、ガチンコ勝負にこだわってほしい。そのための努力は惜しんではいけない。20代ならば少々寝なくても大丈夫だから、いろいろなことに貪欲になってほしい。私がガチンコ勝負にこだわるのは、ビジネスの現場でそれを避けていては、何も得られないからだ。最後に勝つのは、いつまでも粘り強く、自分で考え抜いて正しいと判断したプロセスを踏みしめ、成功に向けて飽くなき追求をし、その途中で出会う困難にも耐え抜き続けた人間である。つらいことがあったとしても、そこから何かを学び取り、次に活かせば、やがて勝てると信じて頑張ってほしい。既存のシステムに順応し、既得権構造に組み込まれてしまった中高年エリート層には、もはやあまり多くを期待できない。若い世代のガチンコ勝負で鍛えられた新しい日本人に私は心から期待している。

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