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マイペース酪農 三友盛行

by 豆野 仁昭
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[amazonjs asin=”4540992317″ locale=”JP” title=”マイペース酪農―風土に生かされた適正規模の実現”]

多すぎる牛は赤字を生み出す一因で、「必要か必要でないか」で判断すべきです。

働く主体は風土なのであり、主人公である風土が自然力をフルに生かせるように「促す」ような農業をめざしたい。

近年、それとは逆にお金をかけ、働きさえすれば乳はできるという思いあがりが蔓延しています。この思いあがりを前向きな積極性だと錯覚している農民は、農業を企業と考え、企業家をめざして舞い上がっています。

心を亡くした人は、単なる物体にすぎません。動く物とは動物です。人に心があるから人間なのです。単に動くだけでは動物で、人が動くことを「働き」と書きます。人が心を回復して、風土に生かされていることを実感し、即を越えず、節度をもって働けば、酪農は楽農に変わり、ゆとりと豊かさが実現できるのです。

極端にいえば、農業にとって一般にいわれる経営や技術は基本的に必要ありません。つまり、農場外で生産された生産資材、外国産の穀物、エネルギーを多量に投入するのに伴って、経済収支を合わせるために必要以上に経営と技術が入り込んでくるのです。
一方、酪農の土台をなしているのは土・草・牛で、本来は人間などいなくても自然に生きるシステムを備えていたのです。酪農にあってはそれが主人公であって、われわれ農民は、そのシステムが十分に機能するように、環境を整備し、段どりをつけるなどの手伝いをする。それが営農すること、働くことの本来の姿です。

むしろ大切にしたいのは、牛と人との関係です。一つは物理的な相互の位置関係、一つは心と心の関係です。牛と人の距離は近からず遠からずで、牛が安心でき、人もスムーズに作業ができる適切な距離が自ずとあります。これ以上でも、これ以下でも牛は不信感を抱き、驚きで時には足を上げます。

入植直後は牛との会話も未熟で、何頭もの牛を死なせました。牛は本当に見てる間に死んでしまいました。牛が増えたときは忙しくて、牛の語りかけに気がつかずに、わかっていても無視したりしてしまいました。適正規模に落ちついてからは、牛を死なせたことはありません。牛舎が一つなので、ひと回りですべての牛に目が届きます。牛飼いにとって、牛の健康ほどありがたいことはありません。

私には、篤農家になる能力も気力もありません。しかし、真の農家・農民にはなりたいと願ってやみません。自分が主体となって酪農をするなどという大層なことはできません。そこで働く主体、主人公には風土にお願いしました。風土が主体ですから、その風土が働きやすいように促す、そんな農家になろうということです。段取りをしっかりとして、あとは生きものたちの働きにまかせています。草は自然に大きくなり、牛は放してあげればのびのびと草を食べ、土は休むことなく励んでくれます。
風土の領域に過剰に立ち入って、風土に迷惑をかけ邪魔をする、そのはてに農家は疲れきっています。どうころんでも、われわれ人間は完全ではないのですから、風土に生かされる「促農家」になりませんか。風土に恵まれているのですから、もう少し甘えて怠慢になりませんか。農民は少々怠慢なくらいがちょうどよいのです。

農業には家畜がいるのが本来の姿なのです。

堆肥には、ただちに肥料効果を求めるのではなく、土になじみ、地力的な効果つまり富の蓄積を期待すべきです。

適量とは、健全な生産環境を維持し、再生産できる循環の仕組みの結果に生産された量です。適量を超えた農産物は、われわれの子や孫がニ十一世紀に食べるべき食糧を先食いしている分だと認識すべきです。

配合を食べたくてもなければ、乾草や青草を食べざるを得ません。

唾液の分泌、内臓の働き、生産量などが、牛のおだやかさに影響すると思います。

ヘルパーにまかせられないとすれば、その牧場の作業のやり方にむしろ問題があるのです。俺でなければ、私がいなければできない作業や搾乳があることは、誇るべきことでもなんでもありません。

ヘルパーが苦労することは、実は自分たちが一番苦労していたところなのです。

男のロマンは、女のフマン。
男性のアクセルと、女性のブレーキが一つになって、安心・安全な営農・暮らしが実現します。

適切規模を超えた拡大は、決して積極性によるものではなく、消極性によるものです。逆に立ち止まり、縮小、現状維持をすることは、実は積極的な人生観がなければできません。自分自身の、あるいは家族に対する確固たる生き方、方針がいつまでたっても確立できないために、ずるずると流れに乗って拡大してしまいます。

男性は本当に弱虫で、主体性のないものなのです。そしていつも、他にその原因を見出すことに長けています。ただ単に、男性に生きる自信がないだけなのです。

男性の思考法は垂直方向で、女性は水平方向です。上へ上へ大きくなることで、また時として背のびをして、まわりと高さを比べたり、一喜一憂しています。女性は地に広く、強く根を張り、あらゆる方向に興味と関心をもち実行してゆきます。男女の特性を組み合わせて、はじめて社会として認められる存在になるのです。

女性が男性と同じ立場に立ち、男性が女性を評価し受け入れてゆけば、営農・暮らしは確実に変わります。

酪農は自分のための利益を生産するだけの場ではなく、公の社会資産でもあるのです。

私の農場はチーズの製造、販売をしているため、多くのみなさんが訪問してくださいます。ただ単に、チーズを購入するということだけではなく、牧場のなかをゆっくり散策したり、牛馬、ネコ、ニワトリなどと遊び、林のなかでブランコ、イスで憩っていきます。夏は無農薬の野菜、秋には落葉、木の実を採ってクリスマスリースをつくる人もいます。
牧場は信頼と安心をつくり出す場でもあるのです。

二十世紀の酪農の主人公は人間でした。人間が生きるために酪農を経営しました。二十一世紀は人間が生かされるために、乳牛を主人公にします。その道しかありません。
それは決して難しいものではなく、人間が微力であることを認識し、風土の力を最大限に利用して生産する原形を生かしつつ、経験の積み重ねと科学の力を利用して、営農すればよいのです。人間の科学・技術・過剰な欲が、農業としての酪農より前面に出ないことが大事です。

主人公は乳牛という認識のもてる農民。
乳牛を支えるのは、自然という大きな働きから、ミミズ、昆虫、微生物という小さな働きまであることを知り、それらをすべて育む風土に生かされる農民。
農民は、酪農の助け手という立場をとれる人。
女性をよきパートナーと受け入れる人。
男のロマンは女のロマンと同等になれる人。
適正規模の営農と暮らしをつくりあげられる人。
男性も女性も、過去から現在そして未来へのたいまつの伝達となれる人。オタオタしないでオロオロできる人。
成長から成熟へ、大人になれる人。

日本で一番遅い春と早い秋で暮らしが成り立つ根釧の風土は、日本で一番の農業適地かも知れません。ただし、風土にふさわしい草地酪農に限定されます。農業は本来風土に規定されるものです。現代技術は、なるほど風土の制約を超えたかのようにみえますが、それは単に経済収支が合うという範囲にすぎません。

風土を越えた一戸より、五戸の酪農家が生かされる農業のほうがはるかに効率がよく、豊かなのです。

農業の生産物は無限ではありません。生産拡大を実現したのは、有限な資源とエネルギーです。農業は風土の範疇を越えることはできません。農業の基本は適地、適産、適量です。とくに適量が大事です。
適量であることがおいしくて安全であり、かつそれにふさわしい対価が必要なことを消費者に理解されることが必要です。この対価が国民が理解し支払うとき、農業は人類の存続とともに永続し、環境を守り人びとの生命を守るのです。
そして、生命を支える農業は人類共通の財産として、この財産を守るために人びとはそれぞれの立場でつくすことができるのです。二十一世紀の農業は単なる農民のための営農ではなく、地球人の共通の社会資産です。
農民は社会に貢献し、社会の評価に耐えうる農業を行わなければなりません。このことが農業が社会に支えられ、この作業に参加する農民の人生をも豊かなものにしてくれるのです。

年をとったら縮小し、若者は一から築けばよい。
私も入植以来三十年を超しました。五十五歳を前にして体力がなくなりつつあります。しかし、体力の衰えが私をして長年の夢であった農民にしてくれそうです。体力がないゆえに風土に従順に、風土に頼る農業が展開できます。

農業の節度という範囲ははっきりと明示されていないのが問題なのです。この節度は一人一人の農民が体験的に知ることしか方法がないのかもしれません。
農業のよさの一つは自主的であることです。この自主的であることは決してわがままではなく、節度と一体であるべきです。この節度を守ることは、時として経済的繁栄と距離をおくことになります。しかし、長い視点でみれば、農業が持続して、農民を末永く豊かにしてくれると確信しています。

私の農民人生のもっともよかった点は、初代の開拓であったことです。文字通り裸一貫のスタートでした。妻と二人。あるのは若さと夢だけでした。肉体的な苦労も、借金の山も幸せを育てる糧でさえありました。
すべての農民が初代になることは不可能ですが、せめて一世代一農業を実行できればすばらしいと思います。右あがりの成長だけの農業ではなく、一世代ごとに完結する農業が実現すれば世代の循環がスムーズに行われ、生産量の拡大だけにとらわれず、借金の累積もなくなり、後継世代の意欲もわき、過疎もなくなります。

現在行われている大方の農業は、ほかから誘導されている「あなたの農業」なのです。風土に生かされ、家族を支え、地域を盛んにするために、一人一人がそれぞれにふさわしい「私の農業」を確立し実践してください。

「恵まれた自然を与えてくれた存在の意志を識ったとき、人間は節度を覚え、自然の開発と保全をはかるときができます。
その一助として農民の存在があり、農業の意義があります。
われわれ農民は過去から現在へ、そして未来へと絶えることのない誇るべき世代の伝達者なのです」

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