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指一本の執念が勝負を決める 冨山和彦

by 豆野 仁昭
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少子高齢化、女性の社会進出、そして世界的競争激化と成長鈍化の現実。終身雇用と年功制が社会の大半を持続的にカバーすることは絶対に不可能。

国も地方も財政は破綻寸前。政府は国債を中心に約800兆円の長期債務を抱えている。地方自治体の6割が赤字といわれている。

これまでの歴史をみると、危機的な状況に陥っているにもかかわらず、旧体制が温存されて、中途半端な緩和策をやった挙句に、全体がもたなくなって、最後は革命が起きるのです。それが、人類が繰り返してきた歴史なのです。

いまの日本は社会も個人も、意識が全部内に向いています。いじめや引きこもり、家族で殺し合い、格差問題にしてもそうです。難しいのは、日本が直面している困難差というのが、本当は外と戦っていることによって引き起こされているというところです。いまは昔と違って静かだけれども、非常に厳しい経済戦争を、個人のレベルでやらなければいけないのです。その問題をないかのごとく、議論を一生懸命、きなこやお砂糖でまぶして、格差だ、格差だと、内に議論を向かせるから、全部不健康な議論になるのです。明らかに今の日本人の、日本社会の精神構造は不健康です。中国やインドには、10億人を超える人口がいて、日本人はそのトップ10%の頭脳と戦わなければならないのです。ところが、日本のビジネスモデルが称賛され始めた80年代から、この国はすごくゆるい社会になってしまって、社会自体が一人ひとりの人間に対してかけているプレッシャーの重さやきつさがどんどん軽くなっているのです。受験のプレッシャーなんていうのは、しょせん、ごっこなんです。人間の根源的なプレッシャ-というのは、生きるか死ぬか、飢えるかどうかなんです。本当の意味でのストレス耐性がすごく弱くなってしまった。それが、リーダーの最も重要な資質であるにもかかわらずです。これからは、ストレス耐性のものすごく強い新興国のエリートたちと、嫌でも競わなくちゃ生きていけない。だから、問題は深刻なのです。

いま日本人が手にしている「既得権」が、10年先、20年先もそのまま手の中にあるなどと甘い考えでいたら、大変なことになります。

私はこの社会の上部構造が腐っていると言いましたが、それでは、その中にいる人たちが個人として腐敗しているかといったら、そういう見方では本質から外れます。最初から腐っているわけではなくて、構造として腐っているところに身を置いたら、誰だって腐った行動をとらざるを得ないのです。私が再生を担当した企業には、92年のバブル崩壊以降、新卒を一人も採用していなかったところが何社もありました。でも、それは人間の本性なのです。とりあえず、その建物の中でみんなでぬくぬくやっているわけですから、それをわざわざぶっ壊して、寒風吹きすさぶところで建物を空っぽにして、基礎工事からやり直すなんて、よほど勇気がなければ出来ることではありません。

映画「北の零年」を見ればわかるように、明治になったら武士だった人たちが北海道に移住して、農民になったりしたわけです。そうなると、剣術とか儒教だとか、武士として身につけた教養は全く役に立たないのです。ほんの60年、第二次世界大戦前後の日本の歴史を振り返るだけで、国の在り方が変わってしまえば、勝ち組も瞬時に負け組となることがよくわかります。平和な時代しか知らない若い人たちは、お金や不動産があればと思うかもしれませんが、戦後のハイパーインフレを経験した年配の方たちは、上部構造が崩れる時は、そういったものすら頼りにならないことを経験しています。国という、世の組織の中でも最も大きく信頼すべきものが、一つの個人、一つの家族にとって、いざという時にいかに頼りないものになってしまうのか。逆に祖国というものを喪失する状況に置かれたときに、私たちがアイデンティティの危機と対峙することがいかに困難か。祖国と個人、対立概念のようであり、実は不可分な関係にある、両者のデリケートで不確実な現実の中を、私たちは日々の人生を生きていることを片時も忘れてはならない。

リーグ戦を戦い抜いてきたやつのほうが、トーナメント制のエリートよりも強い。負けを知っている分だけ実力があるのです。トーナメント戦というのは、負けを知っているやつは残っていませんからね。

今のように変化の激しい時代に、未来を予測するのは困難ですし、個々人がどう生きればいいのか、私にもアドバイスすることはできません。ただ、一つだけ言えることは、変化というのは、能力のある人にとって、大きなチャンスにもなりうるということです。

私は江商の倒産とその後の父の人生を見てきて、つくづく「人生は糾える縄の如し」だと思いました。不運だと思ったことがチャンスだったり、得だと思ってやってたことが、そうでもなかったり。それと、会社はつぶれるものなんだ、永遠不滅の組織なんてないんだと身をもって体験できた。

カイシャ幕藩体制が崩壊するということは、これまで日本が営々と築き上げてきた仕組み、雇用保証だの、社会保障だのといったものは、もうあてにならなくなる可能性を意味します。ですが、それは同時に、我々日本人が本当に自分の頭で考え、創造的な活動をするスタート地点でもあるのです。そして、そのような時代こそ、真のリーダーが育つし、突然変異的に現れてきたりするものなのです。

人が役に立つか立たないかの分かれ目は、その人にストレス耐性があるかないかなのです。頭がいいとか悪いとかに関係なく、ストレス耐性のない人は、本当に戦ってほしい局面で機能しなくなるのです。

よく経営責任と言いますが、経営責任というのを突き詰めると、最終的には自分以外の人たちの人生に対する責任なのです。だけれども、それって実はとれないんです。とりようんがないのです。そういう意味でいうと、経営者には、責任をとれないぐらい重い責任があるわけです。その実感というのは、そういう現実に直面しないと、ピンとこないんですよ。人間というのは、自分が体験していないことはほとんどの場合、想像できません。イマジネーションの源泉って体験ですから。誰であっても、せいぜいできることは、自分とかかわりをもってよかったと思ってもらえるように、全力を尽くすことだけだと思うのです。

本当に追い詰められないと、それぞれの人間の本性って分からない。ある意味で、人間って追い詰められれば追い詰められるほど、それぞれの人が持っているモチベーションの奴隷なのです。最後はみんな自分の寄って立つものに正直になるということです。会社の立場からすると、ある人の行動は裏切りに見えるし、ある人の行動は美しく見えるんだけども、それも結局はそれぞれの事情があることで、どちらが正しいとか正しくないとは言えないのです。だから、「忠臣蔵」の話によく似ているんですよ。四十七士になった人もならなかった人も、どちらが立派ということはない。善悪一如なのです。それまでの私自身の人間観というのは、今よりももうちょっと単純で、善と悪とか、徳のある人徳のない人、品格のある人ない人、有能な人無能な人、頭がいい人と悪い人といった、白黒はっきりした、素朴なものだったと思うのです。それが、経営のリアリズムというのを嫌というほど思い知らされて、結局、人にとって善悪というのは、コインの裏表みたいなものなんだなということに気づきました。だって、リストラされる方にしてみれば、首を切る側である私は、ものすごい悪人ということになりますから。

自分たちの会社の立て直しで分かったことは、人をリストラしなくちゃいけないような状況に陥った時、対処のポイントは、とにかく誠心誠意を尽くすということなのです。それが一番正しい姿勢で、具体的にどうしたかといえば、とにかく、やめてもらう社員の次の就職先を縁故でも何でもいいから、必死になって探しました。本人がそれを受けるかどうかは別にして。それから、何とか規定の退職金を会社都合で高めに払ってあげられるように、金策に走ったのです。大変なのは、この二つをやりながら本業をやらなければいけないことでした。会社というのは、傾いてくると、ぐじゃぐじゃになっていくのです。リストラとかで本業にエネルギーを割けなくなると、本業が余計に落ち込む。その結果、お金が詰まる。そうやってどんどん悪いスパイラルにはまってしまうのです。その時の体験があるから、会社がつぶれるときというのは、こういう風になっていくんだなというのがわかったんです。わかったんだけど、つぶすわけにはいかないから、そこはもう、社長を中心に皆で頑張るしかないわけです。社員の職探し、金策、本業、この三つを全部フル回転でやるしか選択肢がないいんだから、本当に努力と根性の世界なのです。そういう状態が続くと、ストレスと負荷がかかってくるわけです。だから、何か不祥事が起きたり、傾きかけた会社の社長というのは、睡眠不足と疲れで思考力が鈍ってしまって、間違った判断をしてしまいがちなのです。でも、そういったストレスが合わないと思うような人は、経営者になること自体を辞めた方がいい。

だから、たとえ負けることになっても、若い時に危機的状況に身をさらしてみて、自分がどういう人間なのか、確認する機会を持った方がいいと思います。人は自分を自分で理解しているようでいて、やはり、行動してみないとわからない部分が多分にありますから。「自分がそう思いたい自分」を本当の自分だと思い込んで、本当は精神的に脆い人間なのに、タフだという前提で修羅場に入ってしまうと、周囲にも迷惑をかけるし、心身共に病んで、職場から撤退ということになりかねません。

現実の企業は多かれ少なかれ、言語領域やバックグラウンドの多様性を抱えこんでいますから、それを一つにまとめていく経営者という仕事は、本当に大変だなあと思いました。

もうひとつわかったことは、理解しても合理的に行動しない人というのは、必ずその人なりの理由があるということです。そういう場合は、個人のインセンティブが別のところに働いているのです。一人ひとりと話していくと、そういうことがわかってくるわけです。それぞれの人生があって、それぞれの価値観があって、各人それぞれが持っている動機づけとかインセンティブに対して忠実に行動すると、必ずしも、会社が目指すべき方向へ全員が走ってくれるわけではないのです。個人としていくら優秀でも、反対向きの強烈な動機づけが働いていると、その人の存在は組織にとってマイナスに働いてしまいます。個人としての益と会社の益、もっと言えば公の益というのを同じ方向に向けることがすごく大事なのです。非常に難しいけれども、それが一緒になれば、ものすごい力がでる。反対に、逆向きのモチベーションしかない人に、いくらガンバリズムでがんばれ、がんばれと言っても、意味のないストレスを生むだけです。

会社が倒れていくプロセスというのは非常に人間的な、生々しいものです。週刊誌とか新聞といったメディアも、会社の経営が傾くと、トップがとんでもないバカで、上司に取り入っただけで偉くなったのだとか、あんな無能なやつがトップに立っているから日本の会社はダメなんだという論調で書くでしょう。だけど、それは違う。明らかに違います。そんな単純な話ではないのです。会社がどの方向性に舵取りしたらいいかなんて話は、まっキンゼーでも雇えば、当たり前の正しい結論を出してくれます。当たり前の結論は出てくるのですが、戦略的な合理性で組織全体を引っ張って行けるか、あるいはそういう合意が作れるか、多数派がそれを形成できて、みんながそうなるように、シーソーをばったんと反対側に倒せるかどうか、そこが成否のカギであり、難しいところなのです。そして、たいていはそれができないのです。それは結局のところ、人間の強さ弱さの問題だからです。たとえば人間を半分に減らすことが合理的で正しい判断だとしても、実行すれば内外からすごく叩かれます。それはそういう批判をされた人じゃないとわかりません。公で叩かれるということは、実は内側の世界では、身内からはその何倍もたたかれ、批判されているんですよ。それこそ、怪文書みたいなものがいっぱい出まくっているんです。戦略的合理性を貫こうとしたら、その過程で、聞くも涙、語るも涙の話がいっぱい起きてくるのです。人間は生身ですから、だれしも感情というものはもっているので、やはり自分の良心が痛むわけです。そういう状況に立たされた時に、どうしても判断は、間違った方向に振れていくんですよ。

傍から見ていて、何が変われなかったのか、撤退できなかったのかというのは簡単です。でも、ここが肝心なところですが、現実のリーダーというのは、そういう立場にいないということが理解できないと、本質は見えてきません。自分が当事者としていろいろなしがらみを背負ってその中にいて、それでも、戦略的に合理的な行動ができるのかという話なのです。そういう難しい状況に立たされた場合に大事なのは、トヨタの張富士夫さんが言うように、どこまで「なぜ」ということを突き詰められるかなんです。たとえば、「カネボウは繊維から撤退できなかった。愚かなりしや」ということをいうでしょう。そこで、「頭が悪いから」と結論づけちゃうような人は、基本的に経営者として失格です。そういう人は、現実のリーダーとして機能しないのです。

「3日間くらい、寝不足続きに考えたとしても、間違いない判断が出せるようでなければ、経営者とはいえない。平常のときには問題がないが、経営者の決断場の異常事態発生のとき、年齢からくる粘りのない体での判断の間違いが企業を破滅させた例を多く知っている。……50で死んだ信長には男性的展開の未来が画けるが、年を重ねた秀吉にはそれがない」藤沢武夫

これは元プロ選手から聞いた話なのですが、テニスの世界では、世界ランキングのトップ100というのは、ほとんど技量差がないというのです。実力はほぼ均衡していると。じゃあ、何が勝負を決するかといったら、指一本の執念なのです。トップまで行くやつというのは、やっぱりその辺の集中力、執念というのが、人間業じゃないくらいすごい。

世の中には、頭のいい奴なんか、腐るほどいます。問題は追い詰められた状況かで、どれだけ目の前の問題の、何が重要で、何が重要じゃないかということを整理して、最終的に決断できるかどうかなのです。多くは実力が伯仲する中で、理性を失った側が負けているのです。逆にいえば、心身ともにタフなやつが勝つのです。

自分の立てた目標なり決断なりが達成できなければ、責任をとるというのが、真のリーダーの在り方です。決断もできなければ、責任も取りたくない人間なんて、本来、人の上に立ってはいけないのです。

いまコンプライアンスがどうのこうのと大騒ぎしていますが、ガバナンスの本当の仕事は経営者の首を切ることです。いざというときに経営者の首を切れるかどうかが、ガバナンスのすべてなのです。それがないガバナンスには意味はありません。ですから本来、ガバナンスする側にも、経営者と同じような責任が伴うものなのです。だけどそれを言ったらみんな逃げ腰になってしまうので、そこのところを曖昧にしているわけです。本当のガバナンスを効かせられる人というのは、いざというときに自分が社長と代わる覚悟をもっている人だけなのです。具体的な局面で迫力を効かせられるのは、「だったら俺、社長代われるよ」と言えるかどうかなのです。戦場でびゅんびゅん弾が飛んでくるところに立つと、本気で戦う気のない奴なんてすぐ見透かすことができる。そういうやつは怖くもなんともないですよ。絶対俺の命はこいつなんかに取れないなと思いますから。問題なのは、日本の社会にそういう迫力のある人がものすごく減っているということです。

負け戦を体験するなら若いうちです。偉くなってから負け戦になってしまうと、責任を取らされて、レッテルを貼られてしまいます。そこから這い上がるのは、今の日本ではかなり厳しい。一番最悪なのは、若いのに、「ここでこう、うまく勝ちゲームにして、ここでリターンを取って」というような計算をすることです。日本社会の現実を見つめたとき、30代半ばまではしょせんただの若造です。ということは、逆に言うと責任も問われていないのです。そういう最高の社会勉強ができるときに、小賢しく立ち回っても、長い目で見ると、大きな仕事ができる人間には育ちません。「大欲は無欲に似たり」というのは徒然草の中に出てくる言葉ですが、大人というのは、本来、小欲に惑わされたりしない人のことをいうのです。

逆に曲者なのは、仕事ができて、部下に手柄を譲るような上司です。よく見ると権限委譲していないことが多いのです。全部自分でシナリオを描いて、絶対大丈夫なように保険をかけておいて、最後のいいところだけを若手に花をもたせて、拍手喝采を取っていい気持にさせたりするのです。本当に育てようと思ったら、あえてかかわらない方がいいのです。ダメな上司であろうが、有能な上司であろうが、若いうちは誰からでも実は学べるはずです。自分自身は無に近い所にいるのですから、スポンジみたいなものです。だから、自分の身の不幸を嘆くのが一番非生産的な態度なんです。悪口ばかり言ってるなんてもったいない。自分が飛躍するチャンスがどちらにあるかといったら、不遇なとき、間違いなく無能な上司のときです。

私が若い人に悪い環境に身を置けとしきりに勧めるのは、人間は弱くて怠惰な生き物だからです。人間が弱くて怠惰だという前提がある限り、何らかのプレッシャーなり、規律なり、競争なり、圧力が働かないと、そんなに努力はしません。歩く道に石ころがなくて、きれいに舗装されていたら、足腰は強くならないんです。人生には予期せぬ環境の変化とか逆境の訪れるときが、1度や2度、必ずあるものなんです。そのとき、急坂の山道を歩いていたり、道なき道を切り拓くような経験をしていれば、勘も働くし、大変な状況でもそれほど辛さを感じずに済むものです。だから、若い人たちには、競争から逃げるな、どうせ選ぶんだったらより難しい、自分の勝つ確率の低い場所に選びなさいと強く言いたい。そこで、負ける体験をしてほしいのです。若いときなら負けたって、いくらでも立ち上がれますから。

ビジネススクールで、志願者に自分の失敗についてエッセイを書かせるところがあります。それは、すごく大事なことなのです。向こうの感覚で言うと、たいした失敗のない人間というのは、魅力がないのです。失敗がないということは、勝負していないということです。だから、失敗がないというのは、本当の有能の証ではないのです。勝負していないことの証なんです。

大事なことは、若い時にあまり認められようと思わないことです。みんなに愛されようと思わない。嫌われ、憎まれ、生意気と言われることを恐れないことです。生意気と言われなくなったらおしまいです。とくに若い人は、生意気でいいのです。ちゃんとした目的をもって、勝負して勝負して生意気と言われるのなら、これは仕方がない。人間は、勝負しないと強くなりませんから。ですから若い時は大企業でも中小企業でも、今いる舞台の大きさは何でもいいから勝負して、生意気こいてぼこぼこにされてほしいですね。で、また懲りずに生意気こいて、ぼこぼこにされて、それを5年、10年と繰り返すんです。その時世の中がどうなっているかわからないけども、その人は間違いなく成長しているはずです。

若者がそういう風に真剣にガチンコ勝負に出てきたら、もう一つのポイントは、大人がちゃんと叩いてあげることです。面と向かって、「おまえは馬鹿だ」と言うのはしんどいことです。いまどきの大人は、自分がゆるく生きてきて、自分もガチンコ勝負をしてきていないから、そこで叩けないのです。逃げるんですよ。あるいは、裏に回って悪口を言ったりするんです。怒るというのは、相手以上に相手のやっていること、言っていることをわかっていないとできません。そうでないと、問題点を指摘できないから、実は怒るという行為は、知的にも感情的にも、すごくエネルギーがいるのです。私が見てきた限り、ほとんどの大人は十中八九、裏で悪口を言っているだけなんです。私のことを陰で生意気だといったやつはごまんといると思いますが、面と向かって論破しにかかった人はめったにいません。論戦を吹っかけてくれた人というのは、私に愛情をかけてくれた人です。面と向かって人を論破するというのは、その人の言うことに耳を傾け、理解して、なおかつ、自分の意見を持っていないとできませんから。でも、それこそが、次代を育てる大人の責務だと思うのです。上司はぜひ、愛をもって部下を叩いてあげてください。

好奇心のない人というのは、人を理解することに本質的に興味がないのです。人間的な不合理・不条理、あるいは、人のもっている情緒に流される、だらしない、情けない部分に対して愛着がもてないのです。好奇心をもつということは、人に愛情をもつということと同意語なのです。愛の反対は憎しみじゃなくて無関心といいますが、あれは本当です。憎しみがあれば、争いや摩擦からコミュニケーションが生まれることもありますが、無関心からは何も生まれません。

いま日本では、天職を探し求めて、フリーターを続けたり、転職を繰り返したりする、自分探し症候群に陥っている若者が少なくありません。ですが、たぶん自分なんか探しても分からないし、天職だって、探し歩いても見つからないのです。私はそういう現象が出てきたこと自体、今の日本にリアリティが欠けている証拠だと思っています。ですから、自分を探したい人、天職を見つけたい人は、何でもいいから、興味のあることを一生懸命やってみるのがいいと思います。一番いけないのは、自分を探すために、天職を探すために、何かをやりながら半身引いてしまうことです。どうか人生を探すのではなく、自分の人生を生きてください。そのためには逆説的なようですが、鏡に映った自分ばかりを見つめるのではなしに、周囲にいる人に関心を持って、観察することです。人は基本的には自分勝手で、自分にしか興味がない場合が多いのですが、それだからこそ、人に好奇心がもてる、愛情をもって見つけられるということは、素晴らしい武器になります。そして面白いことに、人に関心をもてばもつほど、自分のこともわかってくるものなのです。

本当に悩んだ時に、ハウツー本にその悩みに対する答えが書いてあることは絶対にありません。人はなぜ、なぜという問いかけをしながら生きている動物です。そのなぜの1個目、2回ぐらいというのは、時代背景とか状況によって変わっていくわけですが、5回、10回と、どんどんなぜを繰り返していった先にある人間の本性というのは、実はそれほど変わっているわけではありません。逆に変わっていないから、私たちが使っている民法も、一番最初に遡るとローマ法になるのです。つまりローマの時代から2000年、実は人間はたいして変わっていないともいえるわけです。社会的生き物としては進歩していないといってもいいかもしれません。たぶん古典の世界の方が、自分でものを考えるためのヒントを与えてくれます。答えはなくとも、ものを考えるということに対するベースというか、基盤を与えてくれる場合が多いのです。ビジネス書なんて、10年後だって90%以上残っていない可能性が高い。そういうものは、本当にオリジナルな解を模索しているときには、役に立たないのです。

私の判断基準は、結局、自分自身の価値基準に照らしてかっこいいかどうかなのです。私にとってかっこいいというのは、自分の心の奥底から湧き上がる思いや、やりたいことに従うことです。たとえそれが、世の中でよしとされている生き方や潮流とは逆向きのものであっても、一向にかまいません。むしろ、いま世の中で流行っているものを追いかける方が、私にとってはダサい生き方なのです。いい大学、いい会社に入って出世しますというモデルも同じことです。親だろうが社長だろうが先輩だろうが、第三者がどう思おうと、究極的には知ったこっちゃない。それは自分以外の人たちだし、その人たちの人生と自分の人生は絶対同一化できないのだから、そんなものは余計なお世話なんです。「あなたに決めてもらう必要はない」という思いが根底にあるので、私にとっては、自分がそれをやりたいかやりたくないか、好きか嫌いかの方が重要です。

人間というのは、だれもが自分という会社の経営者であり、リーダーです。たとえ小学生であっても、その年齢に応じた経営課題というものがあります。大学を卒業するまで、多くの人は返済するにしろしないにしろ、親からの借入金で運営資金を賄っているわけです。しかし、20代ともなれば、社会に出て働くことが収益の柱になるはずです。では、自分という会社はどんな商品を売り物にして、利益を出していくのか。5年先、10年先の会社はどのような規模で、どんな会社にしたいのか。そのためには、どこからお金を調達して、何に投資すべきか、そういったことを考えるのはあなたしかいません。恐い恐いでリスクを取らず、決断を先延ばしにして、はたしてその会社を長期にわたって運営することができるのでしょうか。敵が攻めてきているときに、2年も3年も決断に時間をかけていたら、気づいた時には死んでいます。少なくとも、マネジメントエリートを目指す若者は、目の前にある課題に対して、答えを先送りしてはいけません。

プロとしてリスクを取って生きていくこと、そして経営にかかわる仕事というのは、本質的に厳しく孤独なものです。自分を客観視する自分とは、言い換えれば極めて孤独な自分です。経営にかかわる責任は、最後の最後はすべて自分自身で受け止めるしかありません。しかし、生身の一人の人間というものは、だれしもそれほど強いものではないのです。私ももちろん例外ではありません。孤独や恐怖に眠れない夜や、夢の中でも迷っている自分と幾度となく遭遇してきましたし、これからもそうでしょう。そんなに弱い自分だからこそ、心が帰っていく場所をどこかに持っているということがどんなに救いになるか。弱くて情けない自分をありのままに受け止めてくれる家族や友人を持っていることは、ガチンコな生き方をする人にとって、とても大事なような気がします。

経営の本質というのは、難しさの本質なのです。経営の根底には、必ず経済功利性という冷徹な原理原則があります。要するに、売り上げからコストを引いた利益の出る取引をするということです。人間というのは極めて情緒的で不安定な生き物の上に、不器用なんです。習慣の奴隷でもありますしね。そういった、ある意味では、情理の奴隷に近い生き物なので、間違えるし、めげるし、問題を先送りしたがるのです。たとえば、コストを引いたら大赤字の老舗旅館を営業し続けるというような、経済合理性に反することをやってしまうのです。だから、この合理と情理をどう噛み合わせるかというところに、経営の難しさの本質が横たわっているのです。渋沢栄一は、人に「経営の要諦は」と問われて、「片手にそろばん、片手に論語」と言ったそうです。一方で、儲けという経済合理性の追求、他方で人間学、すなわち倫理学や哲学。経営の本質はもうほとんどそれに尽きるんですね。会社が倒産する原因も、その合理と情理の兼ね合いに端を発しているという点では、昔と同じです。だから、「それを超えていくのが経営ですよ」としか言いようがありません。

よく経営ってこうだ、ああだと言われますが、現実には経営に完成形はありません。そこで求められるのが「不断の自己否定」なのです。過去の自分を捨てることは、人間の本性に逆らうことです。だから徳川家康は、武田の騎馬軍団に三方が原で大敗北を喫して命からがら逃げかえった時、絵師のその時の惨めな姿を描かせて、生涯、床の間に飾っていたのです。人間の記憶というのは、基本的に嫌なことは出来るだけ忘れるようにできているそうです。自然に生きていれば、自分に都合の悪いことは忘れてしまう生き物だということです。家康の非凡さは、人間がいかに忘れやすい存在かをよく知っていたことでしょう。あの戦いで家康の家臣団の多くは、彼を守るために討ち死にしています。だから、家康は、いかに我は愚かなりしか、いかに力足らざるかということを決して忘れまいとしたのです。奢る可能性のある危険性を自ら戒めた。「初心忘るべからず」という諺は、そこから来ているのです。初心のときのフレッシュな、謙虚な気持ちを忘れるなという意味ではない。初心であったころの自分の下手さ加減、だめさ加減を忘れるなということなのです。人間は年をとったり、疲れてくると、どうしても自己革新、自己否定ができなくなります。長年築いてきたものを壊すことによって、すべてを失うのが怖くなるのです。

第三者として自分を冷静に見つめることができない人は、経営者とかリーダーのポジションを目指してはいけないのです。

再生機構が支援するような企業は、基本的なことができなくなっているケースがほとんどです。だから、それを基本に戻すというのは、従業員の人たちにしてみれば、昨日までと違うことをする、これまでの習慣を変えるということになります。人間というのは本質的に習慣の奴隷です。だから、それを変えるというのはだれしも嫌なのです。しかも、変えてもらおうとする相手は、例えば再建先が旅館だった場合には、仲居さんとか、掃除をやってる人たちだったりするわけです。借金を作って逃げてきたとか、変な男とくっついちゃってDVで逃げてきたとか、えてしてそういう人たちなのです。そうすると、好奇心のない人は、「所詮あいつらは、その程度の人間なんだ」というところで終ってしまうのです。しかし、本当に会社を再生したいと思ったら、そういう人たちをどうやったら勇気づけられて、動機づけられるのかを考えなければいけないわけです。それをするためには、少しでもそういう人たちの気持ちの中に入っていかないといけません。完全な自己同一化はできなくても、離れているものが少しでもどこかで重なり合ってこないと、相手の気持ちは分からないのです。相手の気持ちがわかって初めて、どういう風にものを言えばいいのか、あるいはどういう動機づけを与えれば、その人たちが応えてくれるのかがわかるからです。人の気持ちを知りたいと思ったら、その対象に対して好奇心を持たないとだめなのです。誰でも恋をしたら、相手の気持ちの中を知りたいと思いますよね。人を理解するということは、それと本質的には同じこと、実はほとんど相手を好きになることと同義なのです。本質的に人間が嫌いな人は、それが面倒くさくて、かったるくて、できないのです。おそらく、再生機構の若いスタッフにも、うちの仕事ではじめて家族以外の他人とディープな接触を持った人がいると思います。そこから何らかの感動を味わった人は、再生という仕事にはまってしまうのです。別の言葉でいえば、目の前の対象に好奇心を抱き、その人の苦悩と対峙することによって、はじめて人はプロフェッショナルになれるといえます。

経営者というのは、収益をあげなければならないとか、株主へ配当を払うとか、社会への貢献とか、いろいろな責任がありますが、他者との関わり、他の生きとし生ける人々の人生、あるいはその家族との関係で背負っている責任というのは、株主に対する責任とは次元が違います。全然次元が上なのです。これは比較にはなりません。なぜなら、株主というのは通常、出入りがあって一過性のものですが、社員は会社そのものですから。

人間の在り方というのは、結局、最後に何を自分が喜びとするかに還元されると思うのです。たとえば、政治家でも役人でも一流企業のトップでも、エリートは8割から9割、自己愛の塊で、最後には必ず保身に走ります。彼らは、人生の何を喜びとするかという点で広がりがないし、次元が低いからそうなるのです。ちょっと宗教的になってしまいますが、自己愛をそういった低レベルから解放し、もっと昇華していくと、自分以外のものに愛を注ぐ対象が移っていくんですね。自分が生きていることの実感がいちばん湧くのは、自分が何らかの仕事をしたり、頑張るなりして、自分以外のものをよりよくすることができたという実感をもった時だと思うのです。そのようなときに自分の存在をいちばん実感できるし、よかったなと思うわけです。とりあえずメシが食えるということ以上の上の次元で考えると、どんな小さな事であろうとも、多分、そうなのです。大切なのは、そういう生きている充実感とか喜びを人生の中でどれだけ味わえてきたかということです。おそらく、自己保身に走るエリートにしろ、自分の世界に引きこもる人にしろ、そうなってしまうのは、そういう実感をそれまでの人生であまり持ったことがない殻のです。エリートというのは、すごく抽象的な世界で仕事していることが多いので、意外と生きていることのリアルな実感が持てないのです。

もちろん生きていることによって、必然的に迷惑をかける相手もいます。私が産業再生機構で企業の再生を一生懸命やっていても、社員全員は救えません。辞めてもらう人もいっぱい出てくるわけで、彼らに対してどう考えたって、私の存在はネガティブにしか見えないはずです。でも、中にはポジティブに振れる人もいるわけで、全体としてみた場合に、ポジティブの方が多いから、何とか私たちはモチベーションを維持できているわけです。人によって違うでしょうが、多くの場合、人のために自分の存在が役立っているという実感、これに勝るものはないのです。所詮、自己満足なのですが、そのレベルまで自己愛が昇華されれば、自分の存在が人にとっても善になっていくはずだと思いたいですね。そういう意味でいえば、まず、私たちができることは、自分の目の前にいるお客様でも上司でも、あるいは家族でもいいのですが、その人のためなら、自己を犠牲にしてもいいと思える人のために、貢献を積み重ねることでしょう。

経営者というのは、人の人生に関わる仕事です。関わるということは、人の人生を壊しもするけれど、豊かにもするものなのです。少なくともいい経営をしていれば、より多くの人の人生を豊かにしているはずなのです。それはちゃんと相手も分かってくれるので、そういった自分の仲間なり、自分が経営にかかわった従業員との人間関係から得られるものこそが、経営の醍醐味になっていくのです。人間はみんなで一致団結して、何かを成し遂げたときの達成感、人生を共有している感じというのが、忘れられない生き物なのです。私はそこにこそ、経営者の報酬の本質があるような気がします。お金で買えるものは世の中でそれだけ安いものです。どんなに責任が重く、リスクはあっても、経営者には、多くの時空にわたって他者の人生により深くかかわり、より良い方向に変えていける可能性があります。ですからやはり「プロの経営者ほど素晴らしい仕事はない」のです。

私はこれからもずっと、ガチンコ勝負を続けていく。そこから得られるものの素晴らしさを知り、その虜になっているからだ。だから若い人たちにも、徹底的にかっこつけて、ガチンコ勝負にこだわってほしい。そのための努力は惜しんではいけない。20代ならば少々寝なくても大丈夫だから、いろいろなことに貪欲になってほしい。私がガチンコ勝負にこだわるのは、ビジネスの現場でそれを避けていては、何も得られないからだ。最後に勝つのは、いつまでも粘り強く、自分で考え抜いて正しいと判断したプロセスを踏みしめ、成功に向けて飽くなき追求をし、その途中で出会う困難にも耐え抜き続けた人間である。つらいことがあったとしても、そこから何かを学び取り、次に活かせば、やがて勝てると信じて頑張ってほしい。既存のシステムに順応し、既得権構造に組み込まれてしまった中高年エリート層には、もはやあまり多くを期待できない。若い世代のガチンコ勝負で鍛えられた新しい日本人に私は心から期待している。

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