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虐殺器官 伊藤計劃

by 豆野 仁昭
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心の健康を保つためには、深く考えないのがいちばんだし、そのためにはシンプルなイデオロギーに主体を明け渡すのがラクチンだ。倫理の崖っぷちに立たせられたら、疑問符などかなぐり捨てろ。内なる神経を啓発しろ。世界一鈍感な男になれ。正しいから正しいというトートロジーを受け入れろ。

世界には命の値段がどうしようもなく安かったり、場合によっては無価値以下だったりする場所が、たくさん残されている。

読めない文字は情報というよりも意匠だからね。

理解できない文化は排斥の対象になりやすいのと同じくらい、崇拝や美化の対象になりやすいんだよ。

ぼくにはことばが、人と人とのあいだに漂う関係性の網ではなく、人を規定し、人を拘束する実体として見えていた。数学者が数式に実在を感じるように。虚数をリアルに思い描けるように。

何をリアルと感じるかは、個々の脳によってかなり違う。ローマ人は味と色彩を論じない、という言葉があるのは、そういうわけだ。

国家を生々しくイメージできる人々が、ぼくのかわりに世界のことを考えてくれる。

歴史というものは本質的な意味では存在しない。

なんのことはない。判断する自由という厄介な代物を、他人に明け渡しているだけだ。

理由を告げずに逝くことは、遺された者を呪縛する。

夜、寝入り端に突如襲いくる恥の記憶。ひとは完璧に憶えていることも、完璧に忘れることもできない。

自分が肉であるということ。

現実は言語に規定されるほどあやふやではない。思考は言語に先行する。言語は思考の対象であって、思考より大きな枠ではない。

頭のなかでイメージとして想定し、その映像をいろいろ捏ね繰り回したあとで、最後に数式として出力する。

啓蒙それ自体は、誰か側からの独善的な啓蒙でしかない。

進化が良心を生み出した。良心のディテールは社会的産物。

人が自由だというのは、みずから選んで自由を捨てることができるから。誰かのために、してはならないこと、しなければならないことを選べるから。

心臓や腸や腎臓がそうあるべき形に造られているというのに、心がそのコードから特権的に自由であることなどありえない。

虐殺には文法がある。人間がやりとりすることばの内に潜む暴力の兆候。

音楽は心を強姦する。意味なんてのは、その上で取り澄ましている役に立たない貴族のようなものだ。音は意味をバイパスすることができる。

言葉にとって、意味などその一部にすぎない。リズムとしての言葉、そこでやり取りされる、明確に意識も把握もしようがない、呪いのような層の存在。耳にはまぶたがない。

人間は、見たいものだけしか見えないようにできている。

映像で見ているぶんには、人間の丸焼きだろうと内臓だろうとたっぷりの血だろうと、きれいに脱臭されていて、ぜんぜん胸糞悪くならないから-その胸糞悪くならなさが最高に胸糞悪い。

倫理的ノイズ。戦場において、度を越した倫理道徳の類は致命傷になりうる。感情は価値判断のショートカットだ。理性による判断はどうしても処理に時間を要する。というより究極的には、理性に価値判断を任せていては人間は物事を一切決定することができない。

どれだけのモジュールが生きていれば「わたし」なのか、どれぐらいのモジュールが連合していれば「意識」なのか。それをまだ社会は決めていないのだ。

人間は目の前の事態に対してより強く、感情的に判断を下す。理性はほとんどの場合、感情が為したことを理由づけするだけだ。

感情は理性をショートカットして即応性の高い判断を下す。良心が殺意と同じくらい感情的な反応であることを、人はなかなか認めようとしない。良心のモジュールは兵士にとって、「否応なく、容赦なく」存在する。テクノロジーの力を借りて一時的にそれを封じこめなければ、命取りになりかねない。

人間の脳の研究が進めば進むほど、人工知能の研究はジリ貧になっていった。生身の脳の精巧さ-というよりは冗長度をコンピュータで再現することは皆がとうの昔にあきらめている。

依然として戦場では、人間にしかできないことがあまりに多すぎた。

人間とは、ときに自分の命よりも、愛やモラルを優先させてしまうことができる、歪んだ生き物なのだ。利他精神で身を滅ぼしてしまうことのできる、そんな種族なのだ。モラルを見くびってはいけない。進化のそれなりの必要性で生じ、人間の脳に根を張ったものであるならばなおさらだ。

仕事だから、仕事だから。すべての仕事は、人間の良心を麻痺させるために存在するんだよ。

資本主義を生み出したのは、仕事に打ちこみ貯蓄をよしとするプロテスタンティズムだ。つまり、仕事とは宗教なのだよ。信仰の度合いにおいて、明確な違いはない。そのことにみんな薄々気がついてはいるようだかね。誰もそれを直視したくはない。

良心とは、要するに人間の脳にあるさまざまな価値判断のバランスのことだ。各モジュールが出してくる欲求を調整して、将来にわたるリスクを勘定し、その結果としての最善行動として良心が生まれる。膨大な数の価値判断が衝突しーわぎりぎりの均衡を保つ場所に、「良心と呼ばれる状態」は在るのさ。だからモジュールをちょっと抑制してやれば、そのバランスはいともたやすく崩壊する。虐殺の文法は、脳の片隅にあるごくごく小さな、とある領域の機能を抑制する。その結果、社会は混沌状態に転がり落ち、虐殺の下地が出来上がるのさ。

歴史があるから戦争が起こるんじゃないぞ。戦争を起こすために歴史が必要なんだ。国だってそうだ。俺とかお前とかいう区別だって、戦争のためにあるんだ。「俺」と「お前」が憎みあうから戦争が起こるんじゃない。戦争をするために「俺」なんてものは存在するんだ。

私たちは公正な人間です、と主張する。アピールする。というか、そう言いたいがために頭をいじるんだな。そうすりゃ、働いている場所で周りの人から評価されて昇進しやすくなるんだ。

ここでは裏切りゲームがまだ有効なのだ。ゲーム理論的なシミュレーション・モデルの初期は確かに、愛他行為や利他行為といった特性を備えた個体よりも、いつも裏切って目先の利益を優先する個体のほうが生き延びやすい。モデルが複雑化するにつれ、そうした個体は淘汰されて、互いに協力関係にあり、互いを利する性格の個体による集合が増加し始めるが、この大地では複雑性がそこまで進行していないのだ。

戦い、奪い、殺し、女を犯すことは、進化のそれなりのニーズによって脳のなかにその座を得ている。他人を思いやり、他人を愛し、他人のために自分を犠牲にすることもまた、進化のニーズによって生まれたものだ。それなりに生存の必要性によって発生したはいいが、競合し合っている感情のモジュールがいくつかある。そして、そのなかにはいまではすっかりいらなくなってしまったが、まだしつこく残っている機能もある。

虐殺の文法は、食糧不足に対する適応だった。

人類がまだ食糧生産をコントロールできなかった時代の名残だ。

虐殺行為が行われ、食糧の確保が安定する。そのために虐殺を許容するムードを醸成し、良心をマスキングすることは、むしろ個の生存にはプラスとなる。じゅうぶん進化として残りうる特性だ。

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