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ハーモニー 伊藤計劃

by 豆野 仁昭
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優しさは、対価としての優しさを要求する。教師の、親の、周囲のすべての気遣いが、わたしを静かに窒息させている。

リソース意識、または公共的身体。

重くてかさばるのは、いまや反社会的行為なんだ。

このカラダはわたしのもの。わたしはわたし自身の人生を生きたいの。互いに思いやり慈しむ空気に絞め殺されるのを待つんじゃなくってね。

人間は進歩すればするほど、死人に近づいていく。というより、限りなく死人に近づいてゆくことを進歩と呼ぶ。

痛みをちょうだい。

自分たちが無価値であることを証明させてほしい。

人間は極端な出来事を経験してしまうと、丁度いい頃合いをとるのが難しい。反動で思いっきり逆の方向に針を振ってしまう。

意志ってのは、ひとつのまとまった存在じゃなく、多くの欲求がわめいている状態なんだ。人間ってのは、自分が本来バラバラな断片の集まりだってことをすかっと忘却して、「わたし」だなんてあたかもひとつの個体であるかのように言い張っている。

民主主義以降、人々を律するものは、王様みたいに上から抑えつけるんじゃなくて人々のなかに移っていった。みんなが自分で自分を律することになっていったんだよ。みんなひとりひとりのなかにあるものが敵だった場合なんてわたしたちはどうすればいいの。

人は外部のシステムなくしてはその身体維持することすらかなわず、こうしてそこにつけこ込まれる状況を招いた。人は生きることに関する様々な事柄を分業化してきた。豚を狩ること、豚を解体すること、豚を調理すること。

意識と現実は同じ意味。我々が持ち得る現実など、結局は意識に限界づけられる。

報酬系が調和し、すべての選択に葛藤がなく、あらゆる行動が自明な状態=意識の消滅。判断や意志、意識の不要。すべてが自明に選び取られる、完璧な人間。

権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間。

向こう側にいたら、銃で殺される。こちら側にいたら、優しさに殺される。どっちもどっち。

わたしたちはまずどうしようもなく動物で継ぎ接ぎの機能としての理性や感情の寄せ集めに過ぎない。

「わたし」とか意識とか、環境がその場しのぎで人類に与えた機能は削除したほうがいい。そうすれば、ハーモニーを目指したこの社会に、本物のハーモニーが訪れる。

天国なるものがこの世のどこかにあるとしたら。完全な何かに人類が触れることができるとしたら。おそらく、「進化」というその場しのぎの集積から出発した継ぎ接ぎの脊椎動物としては、これこそが望みうる最高に天国に近い状態なのだろう。社会と自己が完全に一致した存在への階梯を昇ることが。

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