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自分の中に毒を持て 岡本太郎

by 豆野 仁昭
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[amazonjs asin=”4413090101″ locale=”JP” title=”自分の中に毒を持て―あなたは“常識人間”を捨てられるか (青春文庫)”]

自信があるわけじゃない。ただ自分をつらぬくんだ。それは絶対なんだ。実力、チャンスがなくてもけっこう。素直に悲しむしかない。

過去の蓄積は積みへらせ。自在さを失うな。無一物、無条件になって、瞬間瞬間に新しく生まれかわって運命をひらくのだ。

成功することが人生の目的であり、メリットであるように誰もが思っていたし、教育された。だがそんなことに少しも価値があるとは思わない。

死に対面する以外の生はないのだ。

挑戦した上での不成功者と、挑戦を避けたままの不成功者。オリてしまったやつには新しい人生などない。ただただ成り行きにまかせてむなしい生涯を送るにちがいないだろう。

誰もが何かしなきゃいけないと思っている。

「お遊び」では駄目なのだ。全生命、全存在を賭けて、真剣に、猛烈に遊ぶのでなければ、生命は燃えあがらない。いのちがけの「あそび」と、甘えた「お遊び」とは、まったく違うのである。

しかしどんな時代のどんな状況のなかにだって、熱っぽく語りあい、問題意識をわけあう仲間がいた方がいいに決まっている。

人間だから、花だから、と区別することはない。いのちの共感は一体だ。

意志を強くする方法なんてありはしない。そんな余計なことを考えるより、ほんとうに今やりたいことに、全身全霊をぶつけて集中することだ。

人間は他の動物よりも進歩している存在にみえるかも知れないけど、不安や恐怖を抱かずにはいられない、悲しい運命を背負っている。逆に人間のほうが他の動物より辛い、寂しい生き方をしているのは確かだ。

人間は誰もが未熟なんだ。自分が未熟すぎて心配だなどいうのは甘えだし、それは未熟ということをマイナスに考えている証拠だ。

名もない人間のほうが、よっぽど無条件な精神力をもって、世界に挑むというファイトをもち得る。

この世の中には、完成なんてことは存在しないんだ。世の中を支配している“基準”という、意味のない目安で他人が勝手に判断しているだけだ。

ニブイ人間だけが「しあわせ」なんだ。ぼくは幸福という言葉が大嫌いだ。

この地球上には辛いことばかりじゃないか。難民問題にしても、飢えや、差別や、また自分がこれこそ正しいと思うことを認められない苦しみ、その他、言いだしたらキリがない。深く考えたら、人類全体の痛みをちょっとでも感じとる想像力があったら、幸福ということはありえない。

なぜ冒険家は一時的なものだけに身体を張り、永遠に対して挑まない、賭けないのだろう。
「冒険」--それは甘えだ。

貧しいことは、苦しいかもしれないが、無条件に生きている人は素晴らしい。みじめに思うことはない。

人生うまくやろうなんて、利口ぶった考えは、誰でも考えることで、それは大変いやしい根性だと思う。世の中うまくやろうとすると、結局、人の思惑に従い、社会のベルトコンベアーの上に乗せられてしまう。

制約の多いところでこそ自分のしたいことをするのが本当の行動になると思う。むしろ社会や周囲の全部が否定的であればあるほど行動を起こす。

自分たちの仲間で、誰かまっすぐに、平気で発言するものがあると、たとえ正しい言葉であっても、何となく反感を覚えて、引きおろしたり、けん制したくなったり、素直に認めようとはしない。卑小なイビツ根性。やがてお互いにちぢかんでしまう。

自由に、明朗に、あたりを気にしないで、のびのびと発言し、行動する。それは確かにむずかしい。苦痛だが、苦痛であればあるほど、たくましく挑み、乗りこえ、自己をうち出さなければならない。若い時こそそれが大切だ。この時代に決意しなければ、一生、生命はひらかないだろう。

いままで、ぼくはずいぶん闘ってきたが、世の中が変わらないどころか、逆に悪くなってきている。つまらなくなったことは確かだ。

変えようと思っても、変わらないのは事実なんだ。だけど、挑むということでぼく自身が、生きがいをつらぬいている。

ぼくは絶対に、変わらない社会と妥協しない、これが、ぼくの姿勢だ。

いま世間で芸術と思っているのは、ほとんどが芸術屋の作った商品であるにすぎない。

ぼくが芸術というのは生きることそのものである。人間として最も強烈に生きる者、無条件に生命をつき出し爆発する、その生き方こそが芸術なのだということを強調したい。

私の言う「爆発」はまったく違う。音もしない。物も飛び散らない。全身全霊が宇宙に向かって無条件にパーッとひらくこと。それが「爆発」だ。人生は本来、瞬間瞬間に、無償、無目的に爆発しつづけるべきだ。いのちの本当のあり方だ。

コミュニケーションというのはそもそも本質的に無条件なものだ。無償、無目的であるべきものだ、とぼくは考える。ところが今日では、すべてが経済的メリット、それに材料を提供するというだけの面で処理されてしまう。そこに人間存在の孤立化を逆に拡大しているという感じが生まれてくるのだと思う。

人間の生命、生きるという営みは本来、無条件、無目的であるはずだ。何のためにこの世に来たのか。そして生きつづけるのか。本当をいえば、誰も知らない。本来、生きること、死ぬことの絶対感があるだけなのだ。

本当の芸術の呪力は、無目的でありながら人間の全体性、生命の絶対感を回復する強烈な目的をもち、ひろく他に伝える。無目的的だからこそ。

ぼくがここで問題にしたいのは、人類全体が残るか滅びるかという漠とした遠い想定よりも、いま現時点で、人間の一人ひとりはいったい本当に生きているだろうかということだ。

個人財産、利害得失だけにこだわり、またひたすらにマイホームの無事安全を願う、現代人のケチくささ。卑しい。小市民根性を見るにつけ、こんな群れの延長である人類の運命などというものは、逆に蹴とばしてやりたくなる。

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ゆきら 2016年11月5日 - 7:18 PM

すごく今、絶望していますが、この文章にちょっと救われたかな。

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